12月19日(土)午後、連合会館で第27回多田謡子反権力人権賞の受賞発表会が開催された。
昨年の多田謡子反権力人権賞の報告記事のタイトルは「多田謡子反権力人権賞の活動休止」だったが、7月ごろ「活動継続」のうれしい知らせが届いた。ある故人の方から多額の寄付の申し出があり、それをもとに継続が決まったとのことである。また正賞の「私の敵が見えてきた」も出版社(編集工房ノア)の好意で増刷できたそうだ。世の中捨てたものではない。たまにはこういう想定外のことも起こるのだから。運営委員の方たちのなかで、安倍政権が続いているのにこの賞が中断するのはくやしいという話があったそうだが、継続できて本当によかった。
さて復活第1回の受賞は3人、斉間淳子さん(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)、方清子(ぱんちょんじゃ)さん(日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク(関西ネット))、山城博治さん(沖縄における平和運動)だった。今回は田畑和子さん、土肥信雄さん、希望の牧場、市民の意見30など、権力と粘り強く闘う草の根市民運動の14団体・個人から選ばれたとのことだ。
この日の発表会で、斉間さんは残念ながら体調不良と中心メンバーを偲ぶ会開催準備のため欠席だったが、代わりにビデオレターが会場に流された。
伊方原発反対の闘い
斉間淳子さん
(写真はビデオレターより)
伊方原発は活断層である中央構造線からわずか8キロの地点に立地する危険な原発である。斉間さんが住む八幡浜から10キロの位置なので地元の反対者として毎月ゲート前で座り込みを行い続けている。
斉間さんは夫(故人)が原発反対運動をしていたことから、女性の会もと1988年2月に「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成した。3.11のときには、「伊方も事故が起これば福島と同じようになる。帰るふるさとがなくなる」と激しいショックを受けた。そして毎月11日に伊方原発ゲート前で座り込みを続けている。はじめは2人だったが、いまでは大阪、神戸からも参加者が集まり25人、50人と輪が広がっている。原発の現地、あるいは周辺の住民が「原発反対の人が現地にいる」と言い続け、知らせることが重要だと考えているからだ。そこで八幡浜市長や県知事が伊方原発再稼働に同意したあと今年11月から1か月、住民投票実施運動も行った。1か月の長丁場は疲れたが、市民が自分の声を届けたいという気持ちが伝わってきたからやってよかった、と語った。
日本軍「慰安婦」問題解決のための闘い
方清子(ぱんちょんじゃ)さん
昨日(12月18日)やっと橋下徹市長が退任した。橋下市長は2013年5月「戦場に慰安婦は必要だった」と取材で答えた。
さすがに大阪市民も黙っておらず、1か月で1万件もの抗議が届いた。橋下さんはこの1年前から「河野談話は最悪」「強制連行の証拠はない。もしあるなら韓国側が出せばよい」など「慰安婦」否定発言を繰り返していた。それで元「慰安婦」が「私が証拠だ」と市長に会おうとすると、登庁すらせず門前払いを食わせようとした。
その後面談を申し入れた矢先にこの発言が報じられた。メディアが注目したので「被害者に会う」と言った。しかし橋下自身の名誉回復のためのパフォーマンスであることがみえみえだったので、直前だったが被害者の意志として面談は拒否することにした。するとネトウヨからの攻撃がすさまじく、1年半後のいまでも続いている。
安倍政権が成立してから状況はさらに難しくなった。国会のなかで被害者へのヘイトスピーチが吹き荒れ、河野談話は間違い、河野氏を召喚しろという要求や検証作業を行ったりしたが、結局何も出てこなかった。
2015年は戦後70年で、安倍は70年談話を発表したが「慰安婦」問題には一言も触れなかった。「女性の心によりそう」などと、加害者意識が皆無の、他人事の言葉がみられた。また談話のなかに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉があった。相手が謝罪を受け入れていないのに加害者が一方的にこれ以上謝罪を繰り返さない、これで終わりにすると一方的に宣言する。こんなバカげた話がどこにあるのか。あきれた。
朴 裕河(パク・ユハ)さんの「帝国の慰安婦」問題について一言触れたい。日本でも言論弾圧、研究の自由との抗議声明が出された。しかしわたしの見方は違う。私見を述べる。この問題を訴えたのは被害者たちだ。間違った事実、たとえば「日本軍と同志的関係」「疑似家族の役割」「恋愛関係」「強制性はなかった」「日本国家の責任というより業者の責任」という記述によって被害者が尊厳を傷つけられたと受け止め、訴えているのだ。知識人の声明には「被害者を傷つけるものではない」とあるが、わたしは「そんなことをあなたたちが判断していいのですか」と問いたい。「日本社会の劣化」がいわれるが、反安保などでいっしょに行動してきた人や信頼してきた人から「慰安婦」問題に対し違う見方が出るのはとても危険な動きだと思う。被害者の声や事実を正面から見据えるのでなく、問題をずらしずらしていくのは、権力の意図が別の方向にもじわじわと広がりつつあるのだと思う。
「慰安婦」だったと名乗り出た人は289人、いま生存者は46人だけだ。冬の間に亡くなる方は多いので、一刻も早い解決を望む。ただ妥協はありえない。そこでわたしたちは「提言」を出した。まず責任を認め、必要な措置をとることだ。具体的には、日本政府および軍が軍の施設として「慰安所」を立案・設置し管理・統制したこと、女性たちが本人たちの意に反して、「慰安婦・性奴隷」にされ、強制的な状況の下におかれたことなどを認め、公式に謝罪し、賠償し、調査やヒアリングをしたうえでさまざまな再発防止措置を実施することだ。日本政府はじつは河野談話以来、20年間一度も調査をしていない。
政府を動かせるのは市民一人ひとりの力である。一人ひとりが置きざりにされた被害者のことをしっかり胸に刻み、すべての被害者が亡くなる前に解決することがわたしたちの課題である。
沖縄における平和運動
山城博治さん
山城さんが登壇すると、まず拍手と「お帰りなさーい」の声、「東京からたくさん心配する声が聞こえてくる。このとおり元気になったことを、まずお伝えしたくて」と第一声を発すると「ワーイ!」という歓声と拍手が会場いっぱいに広がった。
4月20日、「悪性リンパだ、それも末期」との診断が宣告された。即入院することになった。困ったと思ったが、8月20日に退院するまでにリーダーがたくさん生まれ、運動は強くなる結果となった。大衆運動はすごいものだ。10月4日には辺野古の現場に復帰し、11月には東京から機動隊が来たので早朝行動にも参加するようになった。
方(ぱん)さんの講演を聞いて、「慰安婦」問題も沖縄の問題も政府の対応は根本的に同じだと思った。過去の問題に責任をとらない。言いくるめて逃げようとする。これがすべてだ。20万が死んだ沖縄戦、14万の県民が死んだ沖縄戦について一言の謝罪もない。慶良間で起きた強制死、捕虜にされた住民の斬殺などさまざまな事件が隠ぺいされている。
2013年1月翁長現知事(当時那覇市長)を先頭にしたオスプレイ配備反対のデモ隊が数寄屋橋にさしかかったとき、在特会を中心とするグループが「非国民」「帰れ」と激しいバッシングの言葉を投げつけてきた。日本政府が責任を隠し、それを明らかにしようとするとヘイトスピーチにあう、そうした沖縄の歴史や現在の立ち位置を考えあわせ、このとき知事は、沖縄の自民党が東京の自民党の支部である限り、沖縄は救われないと認識し、決意したのだと思う。
政治家は、語る言葉に熱をもたないといけない。知事が庶民の立場に下りて言葉を紡いでいる。だから納得でき共感できる。「県民の魂の飢餓感」とか、政府が普天間の固定化といったとき「政治の堕落」といった。すごい表現だ。翁長さんの言葉を聞くと全身の毛が総立ちする。知事ががんばっている。だから辺野古の現場もがんばる。
翁長さんと対極の位置にいるのが島尻あい子大臣だ。島売りあい子ともいう。沖縄・北方担当大臣でありながら「沖縄振興予算は辺野古とリンクしている」という。唖然とした。昨年は「海の行動は刑特法、ゲート前は公務執行妨害で全員逮捕しろ。事前弾圧ができないかと警察に検討を要請した女性だ。権力に媚を売って大臣になる。政治は絶望だ。島を売り島を買って大臣になる。悪徳政治家の見本のようなものだ。
わたしは高校生のとき学生運動をしすぎて退学処分にあった。人生を変えた本は五味川純平の「人間の條件」「戦争と人間」だった。その前に新川(あらかわ)明、川満信一の「反復帰論」に強い影響を受けた。沖縄は差別されているが委縮する必要はない。沖縄の独自性を大事にし、自信を持とうというものだ。
五味川の本を読み、沖縄戦だけでなく戦争の醜さ、悲惨、悲劇を感じ、日本の戦争を総体としてみることができた。
いま戦争が向こうからやってくる。政府がなだれを打って戦争へ走ろうとしている。「やはり戦争はダメだ」という思いや情念がないと立ち向かえない。
宜野湾の高台に立つと、読谷に上陸した米軍が上がってきた道がみえる。かつて17、18歳の少年兵がアメリカ軍のT戦車に自爆攻撃をし、一晩で34台もの戦車を破壊した。しかし200人の少年が死に、高台から東シナ海にそそぐ川は死の川となった。地獄のような戦争だ。だから「二度とやってはならない」と思い、辺野古に新基地ができるとまた同じことが繰り返される、させてはならないとみな歯をくいしばってがんばっている。
いま沖縄では3本柱で闘っている。翁長知事の政府との裁判闘争を支えること、2016年1月の宜野湾市長選に勝つこと。宜野湾で勝ってはじめてオール沖縄が成立する。そして辺野古の現場は現場で、団塊世代を中心にがんばることだ。12月14日に「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」も立ち上がった。
ゲート前には団塊世代がひしめいている。戦後生まれの団塊世代は戦後憲法を学び、武力でなく外交で処理しないといけないという教育を学び、平和憲法を実践した世代だ。肉体は衰えたといえども心は変わらない。「翼をください」を歌いながら嬉々としてラインダンスを踊っている。われわれの世代こそ最大の平和の砦であり、わたしたちが崩れたら後はない。われわれが越えられたら後はない。だからがんばらないといけない、こういう決意でやっている。
また全国から支援に来てくれている人に感謝したい。いまは九州の自治労からも人が来てくれている。労働者が動き出した。初期のころ、沖縄を痛めつけている本土の人間として沖縄に来るのは勇気がいると話す人もいた。しかし「みなさんのように理性、知性、愛情をもって沖縄と接してくれる人に遠慮はいらない。堂々と来ていただきたい、そして語り合いましょう」と言っている。
明るく闘おう。座れば勝てるのだから。東京の皆さま、力を貸してください。
なお、このサイトにライブの動画がアップされている。
昨年の多田謡子反権力人権賞の報告記事のタイトルは「多田謡子反権力人権賞の活動休止」だったが、7月ごろ「活動継続」のうれしい知らせが届いた。ある故人の方から多額の寄付の申し出があり、それをもとに継続が決まったとのことである。また正賞の「私の敵が見えてきた」も出版社(編集工房ノア)の好意で増刷できたそうだ。世の中捨てたものではない。たまにはこういう想定外のことも起こるのだから。運営委員の方たちのなかで、安倍政権が続いているのにこの賞が中断するのはくやしいという話があったそうだが、継続できて本当によかった。
さて復活第1回の受賞は3人、斉間淳子さん(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)、方清子(ぱんちょんじゃ)さん(日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク(関西ネット))、山城博治さん(沖縄における平和運動)だった。今回は田畑和子さん、土肥信雄さん、希望の牧場、市民の意見30など、権力と粘り強く闘う草の根市民運動の14団体・個人から選ばれたとのことだ。
この日の発表会で、斉間さんは残念ながら体調不良と中心メンバーを偲ぶ会開催準備のため欠席だったが、代わりにビデオレターが会場に流された。
伊方原発反対の闘い
斉間淳子さん
(写真はビデオレターより)
伊方原発は活断層である中央構造線からわずか8キロの地点に立地する危険な原発である。斉間さんが住む八幡浜から10キロの位置なので地元の反対者として毎月ゲート前で座り込みを行い続けている。
斉間さんは夫(故人)が原発反対運動をしていたことから、女性の会もと1988年2月に「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成した。3.11のときには、「伊方も事故が起これば福島と同じようになる。帰るふるさとがなくなる」と激しいショックを受けた。そして毎月11日に伊方原発ゲート前で座り込みを続けている。はじめは2人だったが、いまでは大阪、神戸からも参加者が集まり25人、50人と輪が広がっている。原発の現地、あるいは周辺の住民が「原発反対の人が現地にいる」と言い続け、知らせることが重要だと考えているからだ。そこで八幡浜市長や県知事が伊方原発再稼働に同意したあと今年11月から1か月、住民投票実施運動も行った。1か月の長丁場は疲れたが、市民が自分の声を届けたいという気持ちが伝わってきたからやってよかった、と語った。
日本軍「慰安婦」問題解決のための闘い
方清子(ぱんちょんじゃ)さん
昨日(12月18日)やっと橋下徹市長が退任した。橋下市長は2013年5月「戦場に慰安婦は必要だった」と取材で答えた。
さすがに大阪市民も黙っておらず、1か月で1万件もの抗議が届いた。橋下さんはこの1年前から「河野談話は最悪」「強制連行の証拠はない。もしあるなら韓国側が出せばよい」など「慰安婦」否定発言を繰り返していた。それで元「慰安婦」が「私が証拠だ」と市長に会おうとすると、登庁すらせず門前払いを食わせようとした。
その後面談を申し入れた矢先にこの発言が報じられた。メディアが注目したので「被害者に会う」と言った。しかし橋下自身の名誉回復のためのパフォーマンスであることがみえみえだったので、直前だったが被害者の意志として面談は拒否することにした。するとネトウヨからの攻撃がすさまじく、1年半後のいまでも続いている。
安倍政権が成立してから状況はさらに難しくなった。国会のなかで被害者へのヘイトスピーチが吹き荒れ、河野談話は間違い、河野氏を召喚しろという要求や検証作業を行ったりしたが、結局何も出てこなかった。
2015年は戦後70年で、安倍は70年談話を発表したが「慰安婦」問題には一言も触れなかった。「女性の心によりそう」などと、加害者意識が皆無の、他人事の言葉がみられた。また談話のなかに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉があった。相手が謝罪を受け入れていないのに加害者が一方的にこれ以上謝罪を繰り返さない、これで終わりにすると一方的に宣言する。こんなバカげた話がどこにあるのか。あきれた。
朴 裕河(パク・ユハ)さんの「帝国の慰安婦」問題について一言触れたい。日本でも言論弾圧、研究の自由との抗議声明が出された。しかしわたしの見方は違う。私見を述べる。この問題を訴えたのは被害者たちだ。間違った事実、たとえば「日本軍と同志的関係」「疑似家族の役割」「恋愛関係」「強制性はなかった」「日本国家の責任というより業者の責任」という記述によって被害者が尊厳を傷つけられたと受け止め、訴えているのだ。知識人の声明には「被害者を傷つけるものではない」とあるが、わたしは「そんなことをあなたたちが判断していいのですか」と問いたい。「日本社会の劣化」がいわれるが、反安保などでいっしょに行動してきた人や信頼してきた人から「慰安婦」問題に対し違う見方が出るのはとても危険な動きだと思う。被害者の声や事実を正面から見据えるのでなく、問題をずらしずらしていくのは、権力の意図が別の方向にもじわじわと広がりつつあるのだと思う。
「慰安婦」だったと名乗り出た人は289人、いま生存者は46人だけだ。冬の間に亡くなる方は多いので、一刻も早い解決を望む。ただ妥協はありえない。そこでわたしたちは「提言」を出した。まず責任を認め、必要な措置をとることだ。具体的には、日本政府および軍が軍の施設として「慰安所」を立案・設置し管理・統制したこと、女性たちが本人たちの意に反して、「慰安婦・性奴隷」にされ、強制的な状況の下におかれたことなどを認め、公式に謝罪し、賠償し、調査やヒアリングをしたうえでさまざまな再発防止措置を実施することだ。日本政府はじつは河野談話以来、20年間一度も調査をしていない。
政府を動かせるのは市民一人ひとりの力である。一人ひとりが置きざりにされた被害者のことをしっかり胸に刻み、すべての被害者が亡くなる前に解決することがわたしたちの課題である。
沖縄における平和運動
山城博治さん
山城さんが登壇すると、まず拍手と「お帰りなさーい」の声、「東京からたくさん心配する声が聞こえてくる。このとおり元気になったことを、まずお伝えしたくて」と第一声を発すると「ワーイ!」という歓声と拍手が会場いっぱいに広がった。
4月20日、「悪性リンパだ、それも末期」との診断が宣告された。即入院することになった。困ったと思ったが、8月20日に退院するまでにリーダーがたくさん生まれ、運動は強くなる結果となった。大衆運動はすごいものだ。10月4日には辺野古の現場に復帰し、11月には東京から機動隊が来たので早朝行動にも参加するようになった。
方(ぱん)さんの講演を聞いて、「慰安婦」問題も沖縄の問題も政府の対応は根本的に同じだと思った。過去の問題に責任をとらない。言いくるめて逃げようとする。これがすべてだ。20万が死んだ沖縄戦、14万の県民が死んだ沖縄戦について一言の謝罪もない。慶良間で起きた強制死、捕虜にされた住民の斬殺などさまざまな事件が隠ぺいされている。
2013年1月翁長現知事(当時那覇市長)を先頭にしたオスプレイ配備反対のデモ隊が数寄屋橋にさしかかったとき、在特会を中心とするグループが「非国民」「帰れ」と激しいバッシングの言葉を投げつけてきた。日本政府が責任を隠し、それを明らかにしようとするとヘイトスピーチにあう、そうした沖縄の歴史や現在の立ち位置を考えあわせ、このとき知事は、沖縄の自民党が東京の自民党の支部である限り、沖縄は救われないと認識し、決意したのだと思う。
政治家は、語る言葉に熱をもたないといけない。知事が庶民の立場に下りて言葉を紡いでいる。だから納得でき共感できる。「県民の魂の飢餓感」とか、政府が普天間の固定化といったとき「政治の堕落」といった。すごい表現だ。翁長さんの言葉を聞くと全身の毛が総立ちする。知事ががんばっている。だから辺野古の現場もがんばる。
翁長さんと対極の位置にいるのが島尻あい子大臣だ。島売りあい子ともいう。沖縄・北方担当大臣でありながら「沖縄振興予算は辺野古とリンクしている」という。唖然とした。昨年は「海の行動は刑特法、ゲート前は公務執行妨害で全員逮捕しろ。事前弾圧ができないかと警察に検討を要請した女性だ。権力に媚を売って大臣になる。政治は絶望だ。島を売り島を買って大臣になる。悪徳政治家の見本のようなものだ。
わたしは高校生のとき学生運動をしすぎて退学処分にあった。人生を変えた本は五味川純平の「人間の條件」「戦争と人間」だった。その前に新川(あらかわ)明、川満信一の「反復帰論」に強い影響を受けた。沖縄は差別されているが委縮する必要はない。沖縄の独自性を大事にし、自信を持とうというものだ。
五味川の本を読み、沖縄戦だけでなく戦争の醜さ、悲惨、悲劇を感じ、日本の戦争を総体としてみることができた。
いま戦争が向こうからやってくる。政府がなだれを打って戦争へ走ろうとしている。「やはり戦争はダメだ」という思いや情念がないと立ち向かえない。
宜野湾の高台に立つと、読谷に上陸した米軍が上がってきた道がみえる。かつて17、18歳の少年兵がアメリカ軍のT戦車に自爆攻撃をし、一晩で34台もの戦車を破壊した。しかし200人の少年が死に、高台から東シナ海にそそぐ川は死の川となった。地獄のような戦争だ。だから「二度とやってはならない」と思い、辺野古に新基地ができるとまた同じことが繰り返される、させてはならないとみな歯をくいしばってがんばっている。
いま沖縄では3本柱で闘っている。翁長知事の政府との裁判闘争を支えること、2016年1月の宜野湾市長選に勝つこと。宜野湾で勝ってはじめてオール沖縄が成立する。そして辺野古の現場は現場で、団塊世代を中心にがんばることだ。12月14日に「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」も立ち上がった。
ゲート前には団塊世代がひしめいている。戦後生まれの団塊世代は戦後憲法を学び、武力でなく外交で処理しないといけないという教育を学び、平和憲法を実践した世代だ。肉体は衰えたといえども心は変わらない。「翼をください」を歌いながら嬉々としてラインダンスを踊っている。われわれの世代こそ最大の平和の砦であり、わたしたちが崩れたら後はない。われわれが越えられたら後はない。だからがんばらないといけない、こういう決意でやっている。
また全国から支援に来てくれている人に感謝したい。いまは九州の自治労からも人が来てくれている。労働者が動き出した。初期のころ、沖縄を痛めつけている本土の人間として沖縄に来るのは勇気がいると話す人もいた。しかし「みなさんのように理性、知性、愛情をもって沖縄と接してくれる人に遠慮はいらない。堂々と来ていただきたい、そして語り合いましょう」と言っている。
明るく闘おう。座れば勝てるのだから。東京の皆さま、力を貸してください。
なお、このサイトにライブの動画がアップされている。