井の頭線駒場東大前駅駅から北西に5分、落ち着いた住宅街のなかに、どっしりした蔵のような建物がある。1936年、柳宗悦(むねよし)が設立した日本民藝館である。玄関脇に植えられたカイドウのピンクの花がきれいに咲いていた。
柳宗悦(1889-1961)は民藝運動の創始者である。学習院高等科を卒業した翌月4月に21歳で武者小路実篤、志賀直哉らと「白樺」を創刊し中心的人物として活躍した。「白樺」の縁でロダンの彫刻3点を新婚早々の我孫子の柳邸で預かっていた。そこへ彫刻家を志し朝鮮の小学校教員だった浅川伯教(のりたか)が、朝鮮の白磁の壺を手土産に、彫刻をみるため訪ねて来た。1914年のことだった。柳は朝鮮陶磁の美しさを知り、16年以降たびたび朝鮮を訪れ陶磁器の収集を始めた。20年にはアルト歌手の妻・兼子も同行し、京城で7回リサイタルを開催した。22年には京城で「李朝陶磁器展覧会」を開催、24年景福宮に朝鮮民族美術館を開設した。
1925年には河井寛次郎、濱田庄司とともに「民芸」という新語をつくり、「生活のなかの美」を追求した。35年駒場に転居、翌年自宅向かいに日本民藝館を開館させた。
38年以降沖縄を訪れ、紅型、絹・苧麻(ちょま)・芭蕉などの織物、陶器などを収集した。またアイヌや台湾の織物などの工芸品も収集した。
こうして収集された1万7000点の収蔵品が展示品を入れ替えながら展示されているのが日本民藝館である。1階は、古陶磁、外邦工芸、染織の3室、2階は、李朝工芸、同人作家(3月は芹沢鞘・A4月庄司濱田庄司)、絵画、木漆工の4室、そして特別展をやっている新館である。
わたくしは3月と4月に各1回訪問したが、下記は3月時点のものである(4月には展示品が一変しており驚いた)。
日本陶器では丹波のうるか壷、信楽の茶壷など素朴な焼き物が並んでいた。大きな壺のひとつに花が活けてあったが、民芸の「用の美」はやはり使われているときによくわかる。
中国の磁器は明末のものが多かったが、日本の磁器のルーツが中国にあったことがよくわかった。
染織では、革織が展示されていた。火消しの親方が着た羽織だが、素材が鹿革でぜいたくなうえ、紺一色、絞り染め、「北永」「命」という文字が染め抜かれたものなど、デザインが美しい。
日本木漆工は、南部や興福寺の絵馬、鴻巣人形や三春人形、羽子板、かるたが並んでいた。かるたといっても、いまもあるいろはがるた、花かるた(花札)、百人一首だけではない。うんすん歌留多、偏旁かるた(たとえば虫へん、魚へん)、道才かるたなど豊かな世界が広がっていた。
4月の特別展は「朝鮮陶磁 柳宗悦没後50年記念展」だった。はっとするような壺に目が釘付けになった。「18世紀後半白磁長頸瓶」というプレートしか付いていない。ほかの白磁と違い色がベージュがかっている。壷の左下は少し赤みがかかり、右には一線ひびのようなタテの筋がある。高さ55センチで首が付いているが少し右に傾いている。ライティングのせいもあるが照りがすばらしい。形も色も微妙なアンバランスの美である。
展示品も粒がそろっているが、民藝館の建物や展示台そのものも見ごたえがある。写真を見ればわかりやすいので、正面や展示室のこのサイト(青字をクリック)をごらんいただきたい。太い組木で天井が高く階段が広い、しっかりした建屋になっている。どっしりした黒い柱、壁紙はベージュの葛布の壁紙が使われている。10センチ角程度の太い桟の障子を通して入ってくる光が美しい。一部屋だけ、白地に紺の縦じまのカーテンがかかっていた。壁が横じまなのでバランスを取っているようだ。
月に4回柳宗悦の自宅が公開される。自ら設計し1935年に竣工した木造家屋である。入り口の長屋門は34年に栃木県から移設された。1階は、妻の声楽家・兼子の音楽室、柳の母の部屋だった床の間(もとは仏壇だったらしい)付きの4畳半の和室、ダイニングとして使っていた洋間、それにつながる床の間付きの6畳、女中部屋の4畳半の5室がある。女中部屋の入り口左手には、12番までナンバーの入った呼び鈴盤が掛かっていた。
ちょっと不思議なのだが床の高さが3段階、奥に行くほど高くなっている。洋間でソファに座る人と和室で座る人の目線が合うように和室を高くしたのと、玄関部分は長屋門とセットで移設して付け足した部分なので、高さが違うということだった。
2階は和室の8畳、夫妻の寝室だった10畳、書生が使っていた3畳、書庫として使われた洋室、子ども部屋だった作りつけベッドのある洋室、柳の書斎の6室である。
この書斎がすばらしい。昔はこういう部屋が多かったのだろうが、作りつけの7段の本棚が部屋の三方をぐるりと囲む。入り口部分のみ切り抜かれているが、上部にはちゃんと3段の本棚が付いている。書棚の下には3段の戸棚が付いている。
かなり大きく横長の机(黒田辰秋製作)と獅子頭の付いたイスがある。獅子頭は特注品である。下のほうには獅子の足が彫られ、その下にキャスターがついている。イスは3段にリクライニングし、書き物用ではなく読書やくつろぐためのイスだったようだ。
興味深いのは並んでいる本である。白樺派の有島武郎全集、武者小路実篤全集はもちろんあるが、25巻中13巻分だったり、10巻中5巻だったりだった。最下段には、大日本国語辞典、真宗大辞典のうち3巻、諸橋大漢和のうち1巻、八重山語彙など辞書類が並んでいる。そして深沢七郎「笛吹川」、ラウレス「高山右近の生涯」、柿沼太郎「ストラヴィンスキー研究」、看護学教程、さらに倉敷紡績「回顧65年」といった本まである。これは倉敷の大原孫三郎の関係だろう。あまりにもジャンルが幅広く興味深いが、3人の子ども(宗理、宗玄、宗民)の本も混じっている可能性があるとのことだった。
書庫として使っていた部屋に、何冊か著書や生原稿が展示されていた。「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終わろうとしている」で有名な『失はれんとする一朝鮮建築の為に』の原稿もあった。「此一篇を公開すべき時期が私に熟してきた様に思ふ。将に行はれようとしてゐる東洋古建築の無益な破壊に対し、私は今胸が絞られる・・・」という文章で始まる。この論文は「改造」1922年9月号に掲載され、8月22日付け東亜日報に朝鮮語訳が掲載された。そして内外に波紋が広がり、光化門は移築され取り壊しを免れた。
1階の窓から見えるシダレザクラとハナニラの白い花が美しかった。
住所:東京都目黒区駒場4丁目3番33号
電話:03-3467-4527
開館日:火曜~日曜
開館時間:10:00-17:00
入館料:一般1000円、大高生500円、中小生200円
柳宗悦(1889-1961)は民藝運動の創始者である。学習院高等科を卒業した翌月4月に21歳で武者小路実篤、志賀直哉らと「白樺」を創刊し中心的人物として活躍した。「白樺」の縁でロダンの彫刻3点を新婚早々の我孫子の柳邸で預かっていた。そこへ彫刻家を志し朝鮮の小学校教員だった浅川伯教(のりたか)が、朝鮮の白磁の壺を手土産に、彫刻をみるため訪ねて来た。1914年のことだった。柳は朝鮮陶磁の美しさを知り、16年以降たびたび朝鮮を訪れ陶磁器の収集を始めた。20年にはアルト歌手の妻・兼子も同行し、京城で7回リサイタルを開催した。22年には京城で「李朝陶磁器展覧会」を開催、24年景福宮に朝鮮民族美術館を開設した。
1925年には河井寛次郎、濱田庄司とともに「民芸」という新語をつくり、「生活のなかの美」を追求した。35年駒場に転居、翌年自宅向かいに日本民藝館を開館させた。
38年以降沖縄を訪れ、紅型、絹・苧麻(ちょま)・芭蕉などの織物、陶器などを収集した。またアイヌや台湾の織物などの工芸品も収集した。
こうして収集された1万7000点の収蔵品が展示品を入れ替えながら展示されているのが日本民藝館である。1階は、古陶磁、外邦工芸、染織の3室、2階は、李朝工芸、同人作家(3月は芹沢鞘・A4月庄司濱田庄司)、絵画、木漆工の4室、そして特別展をやっている新館である。
わたくしは3月と4月に各1回訪問したが、下記は3月時点のものである(4月には展示品が一変しており驚いた)。
日本陶器では丹波のうるか壷、信楽の茶壷など素朴な焼き物が並んでいた。大きな壺のひとつに花が活けてあったが、民芸の「用の美」はやはり使われているときによくわかる。
中国の磁器は明末のものが多かったが、日本の磁器のルーツが中国にあったことがよくわかった。
染織では、革織が展示されていた。火消しの親方が着た羽織だが、素材が鹿革でぜいたくなうえ、紺一色、絞り染め、「北永」「命」という文字が染め抜かれたものなど、デザインが美しい。
日本木漆工は、南部や興福寺の絵馬、鴻巣人形や三春人形、羽子板、かるたが並んでいた。かるたといっても、いまもあるいろはがるた、花かるた(花札)、百人一首だけではない。うんすん歌留多、偏旁かるた(たとえば虫へん、魚へん)、道才かるたなど豊かな世界が広がっていた。
4月の特別展は「朝鮮陶磁 柳宗悦没後50年記念展」だった。はっとするような壺に目が釘付けになった。「18世紀後半白磁長頸瓶」というプレートしか付いていない。ほかの白磁と違い色がベージュがかっている。壷の左下は少し赤みがかかり、右には一線ひびのようなタテの筋がある。高さ55センチで首が付いているが少し右に傾いている。ライティングのせいもあるが照りがすばらしい。形も色も微妙なアンバランスの美である。
展示品も粒がそろっているが、民藝館の建物や展示台そのものも見ごたえがある。写真を見ればわかりやすいので、正面や展示室のこのサイト(青字をクリック)をごらんいただきたい。太い組木で天井が高く階段が広い、しっかりした建屋になっている。どっしりした黒い柱、壁紙はベージュの葛布の壁紙が使われている。10センチ角程度の太い桟の障子を通して入ってくる光が美しい。一部屋だけ、白地に紺の縦じまのカーテンがかかっていた。壁が横じまなのでバランスを取っているようだ。
月に4回柳宗悦の自宅が公開される。自ら設計し1935年に竣工した木造家屋である。入り口の長屋門は34年に栃木県から移設された。1階は、妻の声楽家・兼子の音楽室、柳の母の部屋だった床の間(もとは仏壇だったらしい)付きの4畳半の和室、ダイニングとして使っていた洋間、それにつながる床の間付きの6畳、女中部屋の4畳半の5室がある。女中部屋の入り口左手には、12番までナンバーの入った呼び鈴盤が掛かっていた。
ちょっと不思議なのだが床の高さが3段階、奥に行くほど高くなっている。洋間でソファに座る人と和室で座る人の目線が合うように和室を高くしたのと、玄関部分は長屋門とセットで移設して付け足した部分なので、高さが違うということだった。
2階は和室の8畳、夫妻の寝室だった10畳、書生が使っていた3畳、書庫として使われた洋室、子ども部屋だった作りつけベッドのある洋室、柳の書斎の6室である。
この書斎がすばらしい。昔はこういう部屋が多かったのだろうが、作りつけの7段の本棚が部屋の三方をぐるりと囲む。入り口部分のみ切り抜かれているが、上部にはちゃんと3段の本棚が付いている。書棚の下には3段の戸棚が付いている。
かなり大きく横長の机(黒田辰秋製作)と獅子頭の付いたイスがある。獅子頭は特注品である。下のほうには獅子の足が彫られ、その下にキャスターがついている。イスは3段にリクライニングし、書き物用ではなく読書やくつろぐためのイスだったようだ。
興味深いのは並んでいる本である。白樺派の有島武郎全集、武者小路実篤全集はもちろんあるが、25巻中13巻分だったり、10巻中5巻だったりだった。最下段には、大日本国語辞典、真宗大辞典のうち3巻、諸橋大漢和のうち1巻、八重山語彙など辞書類が並んでいる。そして深沢七郎「笛吹川」、ラウレス「高山右近の生涯」、柿沼太郎「ストラヴィンスキー研究」、看護学教程、さらに倉敷紡績「回顧65年」といった本まである。これは倉敷の大原孫三郎の関係だろう。あまりにもジャンルが幅広く興味深いが、3人の子ども(宗理、宗玄、宗民)の本も混じっている可能性があるとのことだった。
書庫として使っていた部屋に、何冊か著書や生原稿が展示されていた。「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終わろうとしている」で有名な『失はれんとする一朝鮮建築の為に』の原稿もあった。「此一篇を公開すべき時期が私に熟してきた様に思ふ。将に行はれようとしてゐる東洋古建築の無益な破壊に対し、私は今胸が絞られる・・・」という文章で始まる。この論文は「改造」1922年9月号に掲載され、8月22日付け東亜日報に朝鮮語訳が掲載された。そして内外に波紋が広がり、光化門は移築され取り壊しを免れた。
1階の窓から見えるシダレザクラとハナニラの白い花が美しかった。
住所:東京都目黒区駒場4丁目3番33号
電話:03-3467-4527
開館日:火曜~日曜
開館時間:10:00-17:00
入館料:一般1000円、大高生500円、中小生200円