多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

古関裕而のふるさと、福島市

2020年11月20日 | 
NHKの連続テレビ小説(102作)エール」も来週が最終週だ。この作品は、作曲家古関裕而(本名・勇治)と妻・金子をモデルにしたドラマだった。
古関は、わたしの世代には1964年東京オリンピックのマーチがもっとも親近感がわく。中学生のころたしか演奏もした。その他「栄冠は君に輝く」、NHKのスポーツ中継テーマ曲「スポーツショー行進曲」「ひるのいこい」「日曜名作座」、昔の曲では「鐘の鳴る丘」(1947)、「長崎の鐘」(49)、「高原列車は行く」(54)など、子どものころから好きな曲が多かった。それで「エール」の放映がなくても一度は記念館を訪れたいと思っていた。新型コロナの流行で遅くなったが、朝ドラ終了間際にやっと訪問できた。
福島駅からメロディバスというバスが1時間に1本程度出ていた。といっても自治体がよく自前で走らせる市内循環ミニバスと同じタイプの車種で、五線譜のディスプレイを描き、車内で「長崎の鐘」「君の名は」など有名な曲7曲を流しているバスだった。平日昼間だったので車内は中高年女性観光客が大多数、「高原列車は、ラララララ行くよ」などと曲に合わせて歌っている。楽しい秋の遠足の様相だった。
見学したのは、町の北東のはずれにある古関裕而記念館、中心部にある古関裕而まちなか青春館「エール」展、北にある信夫山だった。「エール」展は朝ドラのセット、衣装、小道具を並べたドラマに特化した展示だった。
展示室のスペースは期待していたほど広くなかったが、愛用のメトロノームとストップウォッチ、指揮棒、ハーモニカなど珍しいものをみられた。また自宅2階の仕事場が再現されていた。和式の机3つ(「エール」のセットと同じ)、黒電話とラジカセ、なぜか雑誌 ナショナル・ジオグラフィック、床の間にこけしが5つ並んでいた。机の上には五線譜だけでなく、缶ピースもあった。ひとつずつていねいに見れば発見もあったかもしれない。
ただ、コロナで人数制限をしていたし、売り物のひとつ古関の人気100曲の試聴コーナーは閉鎖されていた。室内撮影禁止だったこともあり、思ったほどの収穫はなかった。

「高原列車は行く」の落款入り色紙。4小節の詞とメロディと絵
まちなか青春館とも合わせていくつか新発見があった。まず古関は作曲だけでなく、絵画や動画撮影も巧みだったことだ。直筆色紙が数点掲示されていた。描かれているのは、たとえば「高原列車は行く」というタイトルと「山越え、谷越えはるばると」の歌詞とメロディ4小節分の楽譜、そして山の絵という具合だ。「長崎の鐘」「白鳥の歌」「大南方軍の歌」「愛国の花」の色紙などがあった。その絵がうまいのだ。そして裕而という落款もきちんと押されている。落款のサインや印章も立派な字だった。そういえば、自筆譜がいくつも展示されていたが、「肉弾三勇士の歌」などタイトルをレタリング文字で描いてあるものもいくつかあった。これも素人ばなれしていた。

29歳の古関が、1938年の福島と家族を撮影した8ミリ映画。左は古関が描いた吾妻山
そして8ミリ撮影だ。戦前に自分の8ミリカメラを所蔵していただけでも相当趣味に入れ込んでいたと推察されるが、青春館で、古関が撮った1938年当時の福島の風景や家族の姿が上映されていた。裕而が29歳、2人のお嬢さんがまだ小学校に入る前のころだ。構図がよく、安定した映像だった。そういえば古関の作曲した曲、たとえば長崎の鐘やオリンピック・マーチも考えると構成がうまい。古関は、曲も絵も動画もレタリングも、構成がしっかりしていることとディテールまできっちり仕上げることがいちばんの強みなのではないか。そういう性格と才能があったので、芸術一般何ごとにつけても多芸多才なのではないかと考えた。「鐘の鳴る丘」で放送3か月後から古関自身が突然ハモンドオルガンを即興演奏することになり、ほんのわずか演奏方法を教わっただけで3年余り生番組を続けられたのも、「多芸多才」の強みかもしれない。
次に、作曲したジャンルの多様性と圧倒的な曲数である。校歌だけでも東京ですら44校、全国で300以上といわれる。校歌・社歌、軍事歌謡など歌謡曲、放送音楽、舞台音楽、映画音楽など多岐にわたり作曲数5000以上あるそうだ。「モスラ」は有名なので知っていたが、「鉄腕投手 稲尾物語」(1959東宝)、「パノラマ島奇談」(57東京宝塚)、「放浪記」(62芸術座)、「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」(65芸術座)の音楽まで古関がつくっていたとは知らなかった。
スポーツ関係の曲のコーナーがあったが、有名な「六甲おろし」「オリンピック・マーチ」だけでなく、「紺碧の空」(1931)に始まり、「山形県スキー小唄」(33)、「第7回国民体育大会讃歌」(52)などを経て「スケーター・ワルツ」(71)まで45もの曲を作曲している。
バッハが1100曲あまり、ハイドンが1000曲、モーツァルトが900曲といわれるのですさまじい。古関は自伝「鐘よ鳴り響け(主婦之友社 1980)で「テーマや詩を前にして、その情景を浮かべる。すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる。私はそれを五線紙に書きとる」(p234)、「想念がまとまり構成を決めてしまえば、音楽が湧き出してくる(p238)、「五線紙に向かうと、いつも新しい音楽がとび出して来る(p235)と書いている。
天才の作曲の現場はこういうものなのかもしれない。古関は、「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」などの戦時歌謡で有名だが、「七生報国」「「戦陣訓」の歌」「赤子の歌」「神風特別攻撃隊の歌」、あげくの果てに「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出て来りゃ地獄へ逆落とし」の「比島決戦の歌」までつくっている。またまぎれもない軍歌「第三師団進軍歌(1938)もつくっている。戦後も自衛隊創立10周年隊歌(陸上)この国は(1961)、自衛隊行進歌(海上)海を行く(1953)、「第六特科連隊歌」(陸上 1963)などもつくっている。依頼されると「音楽がどんどん頭の中に湧いて」きてつくっていたのではなかろうか。もしかすると戦争画で有名な藤田嗣治や宮本三郎も似たような側面があったのかもしれない。

福島から20キロ南東の川俣の町と山
なお、古関が福島に住んでいたのは福島商業を卒業した数か月後の18歳までだった。作曲の勉強を本格的に始めたのは川俣銀行に就職してからだし、「竹取物語」を作曲し、国際コンクールに応募したり豊橋の金子と文通を始めたのも福島市から20キロ南東の川俣で、イギリスに留学するつもりで退職したのは30年5月のことだった。20歳で結婚し3か月後にコロムビアと専属契約して上京し、ほとんどの音楽活動は世田谷・代田で行われた。福島は幼少期を過ごし、音楽に目覚め福島ハーモニカ・ソサイティーに参加した場所に過ぎない。しかしふるさととして、信夫山や吾妻山、阿武隈川などが心に存在し続けたことは間違いない。
「エール」はもうすぐ終了だが、フィクションとリアルの相違点などをいくつか挙げる。この旅で知ったことも、すでに知っていたこともある。古関の父・三郎次は1922年裕而が13歳のときに呉服屋「喜多三」を廃業しその後は謡曲三昧だった。父は38年6月に死去、直後に裕而は中支那派遣軍に従軍し南京、九江などの視察旅行に出ている。母は44年8月裕而がインパール作戦特別報道員としてミャンマーに派遣されていたときに亡くなった。
5歳下の弟・弘之は東京のガラス工芸会社に就職したが母の死で福島に戻り県職員になる。そして戦時下の45年、福島市飯野町の農家の娘と結婚した。そのとき裕而が親代わりを務めたことは本当だった(この件は、今回福島民友新聞のコラムで知った)。
作詞家・野村俊夫の実家の魚屋は通りを隔てたところにあると書かれていたので現在の東邦銀行中町支店のあたりかと思ったら、150mほど離れた上町テラスのあたりだったようだ。
また最大の違いは、ドラマでは子どもは長女1人になっていたが、次女と長男もいたことだ。長男・正裕氏は1946年生まれ、大学生のころ1年足らずだがヴィレッジ・シンガーズのキーボード担当、その後日経新聞社勤務を経て退職後のいまはライブユニット「喜多三」のシンセサイザーの担当。古関裕而記念館でCD「喜多三が選ぶ珠玉の古関メロディー」を購入した。孫が誕生したとき裕而がオルゴールでメロディをつくった曲に正裕氏たちが詞をつけた「幸子の子守唄」が目玉だった。
たまたま7月はじめごろラジオ深夜便でインタビューを聞いたが、そのときは「長男が登場するかどうかまだわからないが、たぶん登場するだろう」とおっしゃっていた。なおこのとき放送で知った三越(デパート)のホームソング「今日はよい日」もいい曲だ。

福島駅前 花時計の隣には「エール」の看板
福島の町なかは朝ドラ「エール」のバナーやポスターで埋め尽くされていた。まちなか青春館のすぐ近くで喜多三商店という店を見かけた。もしかすると古関家となにか縁のある店かと思ったが、期間限定の「エール」関連のおみやげ屋さんのようだった。
残念ながら今年はコロナ禍であまり盛り上がらなかったようだが、町をながめているとNHKの現地放送局と市の商工会議所のコラボでキャンペーンを張っている様子だ。NHK福島放送局は駅の南300mあたりにある。壁面の看板をみると、大河ドラマ、朝ドラ、地元制作の夕方のテレビ番組(福島では「はまなかあいづTODAY」、ちなみにラジオは「こでらんに5」)が三本柱のようだった。おそらくNHKの他の地方放送局も同様だろう。そして東京の放送センターでは番組宣伝に血道を上げている。テレビは数年前からそうだった。土曜スタジオパークや「オシばん」に限らず、あさイチ、「鶴瓶の家族に乾杯」などの番組内宣伝も露骨だ。最近はラジオ第1も「R1!」などと番宣を始めた。そのうちFMまで同じ道をたどらないことを願う。今年からNHKプラスで見逃し番組を無料で見られるようになったこともあり、これは明らかな官業(正確にはNHKは特殊法人なので100%官業とはいえないが)の民業圧迫なのではないだろうか。

三種盛りと福島の日本酒
☆福島の夕食はなにか郷土料理を食べたいと思った。肉が有名なのは知っているが、高そうなのでパスした。郷土の名物三種盛りというメニューがあったので、オーダーした。内容は、イカ人参、ニシン山椒漬け、鮭の紅葉漬けとなかなか渋い。酒は大七の生もとの燗酒と地元・二本松の芋焼酎・奥の松にした。店に並んでいる一升瓶をみると会津中将写楽大和屋善内など産地は会津若松や喜多方が大部分だった。大七は福島の南隣の二本松の酒なのでよかった。かつて喜多方で原酒を湯のみで口にし、とてもうまかったのできっとおいしいのだと思う。メニューに浪江焼きそばというものがあった。普通の焼きそばと何が違うのか聞くと麺が太いそうで、具はキャベツなど普通のものとのことだった。たしかにそうだった。
福島市は人口28万人、県庁所在都市で36位、それほど大きな都市ではないはずだが、中央通り、文化通りなどは
飲み屋街がどこまでも続いていて驚いた。7階建てくらいのビルのすべてが居酒屋のようでネオンの袖看板がすべて飲食店で埋まっていたり、東西のメイン通りだけでなく南北の横道をみてもほぼ飲食店だったりで、いったい福島の人はどこまで酒や外食が好きなのか、このコロナ禍でも店は継続していけるのかと思った。

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