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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

山谷─―やられたらやりかえせ

2016年10月14日 | 映画
10月8日(土)午後、三河島のART CAFE 百舌でドキュメンタリー映画「山谷─―やられたらやりかえせ」をみた。「山さん、プレセンテ」という2日連続イベントの1日目である。山さんといっても映画「選挙(想田和弘監督 2007年 120分)の山内和彦氏のことではない。故・山岡強一氏のことである。
タイトルどおり、山谷のドキュメンタリーだということと映画制作に関連し佐藤満夫と山岡強一の2人が暴力団に殺されたことは知っていたが、ほかには何も知らなかった。

映画の内容は、
山谷の住人のドキュメント(例 朝の就労風景、盆踊り、玉姫公園の焚き出し、カンパ集め、立飲み酒場、野垂れ死、暴力手配師に拉致され働かされた夫婦など)
争議団の活動と暴力団や警察・機動隊との対立(例 手配師との集団交渉、都庁交渉、一時金交渉、機動隊との小競り合い、暴力団とのにらみ合い、クルマが炎上する暴動シーンなど)
江戸時代以来の山谷の歴史
全国の寄場紹介(寿、釜ヶ崎、笹島、築港)、釜ヶ崎との共闘
筑豊の廃坑(炭住、生活保護、朝鮮人のボタひとつの墓)
と、多岐にわたる。
わからないところがたくさんあった。
とくに最後のほうの筑豊の部分のつながりがよくわからなかった。
八幡製鉄所や筑豊の炭鉱に多くの朝鮮人が強制動員され、戦後のエネルギー転換で廃坑後、多くの人が大阪、名古屋に流れて行った。その一部は山谷を含めたドヤ街に住みついた、ということかとは思うが、明示的には語られなかった
新橋の闇市からある日突然台湾人が松田組により追放されたというインタビューも、どういうつながりがあるのかよくわからなかった。
上映後の「山さん年代記」というディスカッションやパンフレット、また図書館で借りた「山谷――やられたらやりかえせ」(山岡強一 現代企画室 1996.1 448p)の各部2頁見開きの編者註をみて少し時代状況など背景を理解することができた。
これより前の1968年に船本洲治、鈴木国男ら広島大学グループが山谷を訪問、72年には釜ヶ崎で共闘会議を結成し、山谷とも連携する。山岡も69年11月山谷、12月釜ヶ崎を訪問(出稼ぎ)、72年8月山谷で悪質業者追放現場闘争委員会(現闘委)を結成した。その後75年6月25日船本は皇太子訪沖に抗議し、沖縄の嘉手納基地前で焼身自死、鈴木は精神病の薬を大量投与(薬漬け)され76年2月16日大阪拘置所で死亡した。船本の死後4年の79年6月礒江洋一(元現闘委メンバー)が状況打破のため山谷マンモス交番の警官を単独で刺殺した(礒江はいまも無期刑で旭川刑務所に収監)。
こうしたすさまじい背景のもとつくられたのがこの映画である。山岡も72年以降4回逮捕され、80年には10か月、83年には4か月の長期拘留を闘った。

84年12月はじめの撮影開始からわずか3週間足らずの12月22日佐藤監督は西戸組組員に刺殺される。映画をみていたときにはだれのことなのかわからなかったが、道路に横たわる監督自身、病院内をストレッチャーで運ばれる監督の様子も出てきた。前月11月の西戸組登場とその日のうちの撃退、山谷暴動で山岡は他の31人とともに逮捕され翌年3月まで長期拘留されているあいだのできごとだった。残されたフィルムは3時間40分、8000フィートに過ぎない。

スクリーンをはさんで左・佐藤満夫、右・山岡強一
下記は「山さん、プレセンテ」パンフの赤松和子執筆「製作過程」による。
佐藤刺殺後、1か月半ほどカメラマンによる大井収容所受付、越年闘争、佐藤の人民葬などの撮影時期があり、2月3日に「山谷」制作上映委員会が結成され佐藤が残した「シナリオ」(案)を検討しつつ争議団や寿、釜ヶ崎、笹島の三大寄場の撮影などを監督不在のなか続行、6月末か7月に「船本洲治遺稿集」の編集を終えた山岡強一が監督に就任し、8月15日の靖国神社、10月初めの筑豊ロケ、山谷の立ち飲み屋ロケなどを行う。撮ったフィルムは3時間15分、7000フィート。撮影をアップしたのは11月上旬(9日ごろ)だが、そこからは早かった。わずか40日で編集作業を完了している。
全部で41時間、9万フィートのフィルムを最終的に110分にした作品が、佐藤満夫虐殺1か年追悼集会の12月22日に完成・初上映された。
こういう経過をたどっているので視点が多岐にわたり、わかりにくくなることはやむをえない。しかも山岡強一は完成から1か月足らずの1986年1月13日早朝6時5分、戸山の自宅近くで金竜組組員により射殺された。12月22日の初上映後、1月11日に名古屋で上映会、12日夜は反天連の事務所で座談会を行いその翌朝のことだった。
スタッフロールのあと突然Romusyaの文字がズームアップされる。周囲の文字は英語ではないことだけはわかったが何語かわからない。あとで聞くとインドネシア語の教科書の画像だそうだ。完成させた監督、山岡はこう解説している。
最後のRomusyaは、この一編が労務者をテーマとしたものであること、しかもそれは日帝の侵略版図を物語るものにほかならないことを示すものです(著書398p「書簡3」より)

すさまじい背景の映画である。一言でいえば「運動」の映画である。また84―85年の山谷のできごとと人を撮った記録映像として歴史的意義もあると思う。ただ映画作品としてはまとまりも悪く、主張ももうひとつわかりにくい。
山谷の人は、元気なうちは暴力団にむしられ、病気になれば病院にむしられ、結局野垂れ死にするという話は強烈だった。精神病院・宇都宮病院への抗議デモのシーンがあったが、ネットで調べると84年に発覚したこの事件は本当の話で、作業療法という名で患者に強制労働させたり、患者に暴行したり、じつにひどい実話だった。
1980年代半ば、廃坑の町は「生活保護」が最大の産業だったという話も強烈だった。
当日、30年前の映画だが「いまの状況と基本的にはなにも変わっていない」という解説があった。たしかに新自由主義により、非正規労働が常態化しブラック企業が増加しているので、自死するワーカーも増えている。「山谷」が日本中に広がったともいえる。自分より少しでも下層な人を蔑み、罵詈雑言がネット空間で飛び交い、ヘイトスピーチが跋扈する社会、30年前よりむしろ露骨になったともいえる。
また2016年のいまではつくれない映画だと思った。もちろん、現場での団交、暴力団や機動隊との肉弾戦といった「現実」のシーンが存在しないこともあるが、個人情報やプライバシーの問題で、こんなに自由に人の顔や人の発言、感想を映画に取り込めない。もっともこの映画の場合も筑豊のシーンでクレームがつき、91年から97年の6年上映凍結や一部カットの時期があったそうだ。
短く言えば30年後はドキュメンタリー映画をとりにくい時代になっているのだ。

BGMがそれほど出てくるわけではないのだが、人民葬の場面の「同志は倒れぬ」(これはジンタらムータの大熊ワタルらが演奏)、85年正月のロックフェスのような集会での「ワルシャワ労働歌」(砦の上に我らが世界という歌詞の曲 音源はたぶん中央合唱団)、炭鉱跡地のピンクのコスモスの映像とともに流れるパブロ・カザルスの「鳥の歌」、炭住長屋のバックの三橋美智也の「哀愁列車」・・・。それぞれ印象深かった。

またこの映画はいまでは珍しくなったフィルムで撮られ、16mmフィルムで上映されたので、1時間ほどたったところでフィルムかけかえがあり、丸のなかに10,9,8・・・と数字が出る「珍しい」画像がみられた。

☆80年半ばの山谷の「事件」はまったく記憶がなかったので、どうしてか考えてみたらわたくしはこの間7年ほど東京にはいなかったのだった。
そういえば、この映画と似て実質的な監督が公開直後、亡くなった作品で「竜二
(金子正次主演 東映セントラルフィルム 1983年 92分)がある。
公開8日後に33歳の金子は事故ではなく癌性腹膜炎で亡くなった。この映画はわたくしとしては珍しく封切りでみたが、それは名古屋の東映の映画館だった。

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