「オバケのQ太郎」「パーマン」などで有名な漫画家・藤子不二雄は、安孫子素雄と藤本弘の2人が合作漫画を描くときのペンネームである。2人の人なので、もちろん個性は違う。わたしは子どものころは1人だと思い、おとなになって2人であることを知ったが、どのように違うかは考えたことがなかった。
今回、富山市から高岡市を回る旅をした。2人の高岡時代のエピソードは「まんが道」立志編、青雲編1・2(1986.10中央公論社)による(ただし、この作は安孫子のフィクションなので、わたしが事実と混同している事項も混じっている可能性もある)。
安孫子素雄は1934年3月10日、氷見の光禅寺49代住職の長男として生まれた。光禅寺は1327年に開山した曹洞宗の大きな寺で前田利家画像や地蔵菩薩の文化財も所有する。外観もかなり立派だが、拝殿の前に「ハットリくん」「怪物くん」などのキャラクターの石像4体があった。
比美町商店街の南端に「湊川カラクリ時計」があり、30分ごとに忍者ハットリくんなど7体の人形が現れ4分間のアトラクションを繰り広げる。いかにも子どもたちに人気がありそうだ。商店街のあちこちにブリ、アンコウ、イカ、タコなど氷見のサカナ紳士録という安孫子がつくったキャラクターが展示されており、北のはずれのほうに潮風ギャラリーという記念館がある。原画などのほか、フラッシュ撮影をすると絵柄が変わるミラクルまんがアートコーナーやトキワ荘14号室の再現展示もある。
全面安孫子のまちのようだが、じつは氷見には10歳までしか住んでいない。父が44年6月に急逝したからだ。15キロほど南の高岡に転居し、転校した定塚国民学校の同じクラスで藤本弘に出会う。だが安孫子一家は2学期に疎開で県東部の山崎村に引っ越す。短いつきあいだった。しかし敗戦で45年2学期に定塚に戻り、卒業する。
高岡に2回住んだ家が同一かどうかはわからないが、跡地は駅近く、現在富山銀行本店向かいの駐車場になっている場所だ。安孫子の母は喫茶店で働き、安孫子は母がときどき店から持ち帰った英文誌LIFEやCOLLIER'Sを楽しみにしたという。
進学先は、安孫子は旧制高岡中学、藤本は旧制高岡工芸専門学校電気科と分かれる。ただ、この2校は氷見線の踏切をはさみ300mくらいしか離れておらず、すぐ近くにあった。自宅も450mくらいの距離にあり、頻繁に会い漫画雑誌への投稿を行う。
50年4月、高2のときに「少太陽」という手描きの回覧雑誌を2人で作り、合作スタイルになり当初は手塚治虫をもじった足塚不二雄、その後藤子不二雄とペンネームを付け、原稿料を振り込む郵便貯金口座もつくった。51年12月毎日小学生新聞大阪版に「天使の玉ちゃん」を4カ月弱連載しデビュー作となった。52年には「ベン・ハー」(未発表作)を描き、尊敬する手塚治虫の大阪の自宅に持参した。
定塚ギャラリーの外観
一方、藤本弘は1933年12月1日高岡市定塚で生まれた。跡地はいま定塚ギャラリーという民間施設になっている。予約制の見学受付とのことで外観しかみていない。2021年1月5日付朝日新聞の記事が貼ってあった。記事によればこのギャラリーは「ふるさとファンクラブ」のメンバーたちが跡地に建つ民家を買い取り2016年4月に開館したもので、2階には親戚や同級生から聞き再現した当時の藤本の部屋があるそうだ。1階ガラス越しにドラえもんの大小のグッズがたくさん並んでいるのが見えた。。
2人が卒業した国民学校まで300mほどだ。いまは高陵小学校になっているが、「鳳凰鳴けり高岡に 古城のほとり座を占めて」の定塚小学校校歌の石碑があった。1931年制定なので、2人も歌ったはずだ。
高岡では、2人が漫画雑誌を買うため立ち寄った文苑堂書店跡地、漫画原稿を郵送するのに使った高岡郵便局、高岡古城公園の二ツ山などをみた。
古城公園は高岡の真ん中にあり、東西400m、南北650mと広い。高校はその北東にあり、2人の家は南側なので、古城公園は行きつけの公園だったのだろう。
公園の中心に射水神社があり、二ツ山は神社脇の相撲場の後ろの小高い丘のような場所だった。2人はここで漫画について語り合ったり、完成した合作雑誌を見たり、2人だけの時間を過ごした。たしかに気候がよく、天気のいい日には気持ちよさそうな場所だった。
書店のおやじさんや郵便局の担当局員とは、頻繁に行くのですっかり仲良くなったと「まんが道」にある。
文苑堂書店跡地は、駅の近くにあり、看板はそのままだが、いまはカフェのようにみえた。郵便局は古い町並みが保存されている山町筋の旧・富山銀行本店、高岡信用金庫本店、質屋など金融業の店舗地域の一角にあった。2人の家から1kmほど距離があったが、大型郵便を速達で送るには便利だったのかもしれない。
富山新聞のビル 隣は木造2階の商店だった
安孫子は、高校卒業後、伯父が専務を務める富山新聞社に就職し、富山まで40分ほどかけて電車通勤した。新聞社では図案部、学芸部で働き、広告図案、政治家の似顔絵、カット、映画紹介、ラジオ欄を担当した。このあたりは「まんが道」青雲編に詳しい。
城跡近くにある富山新聞の建物をみた。富山新聞は1923年創刊だが54年9月金沢の北国新聞に吸収合併され、北国新聞富山本社となり、印刷は金沢で行っている。7階建ての落ち着いた建物だった。もちろん安孫子が勤務していた頃とは建物は立て直してあるだろうが、場所はおそらくここのはずだ。
藤本は製菓会社に就職したが短期間で退職し、漫画に専念した。安孫子は新聞社勤務の「二足のわらじ」だったので、藤本が主力になり漫画の合作を続けた。「まんが道」によれば、片方がストーリーを考え、アイディアを出し合ったうえ、どちらかが下絵を描き、仕上げは2人でページを分けて分担仕上げする、とか片方が下絵を描き、それを基に片方がキャラクターを考えるというように分担作業していたようだ。「西部のどこかで」(冒険王52年12月号)、「三人兄弟と人間砲弾」(漫画王52年12月号付録)、連載「四万年漂流」(冒険王53年12月号から6回連載)、53年8月単行本デビュー作「UTOPIA 最後の世界大戦」(鶴書房)など漫画制作に励んだ。
高岡には市立美術館2階に藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーがある。母校・工芸高校の北側だ。詳しい年表、レプリカも含め手づくり雑誌「少太陽」51年新年号、各種漫画の原画、54年上京したときに使った旅行カバン、愛用のベレー帽など、珍しいものがあった。ところが、ここは写真撮影はもちろん、館内でメモを取ることも許されなかった。いちいち記憶して、館外に出てノートに書かないといけないので、面倒かつ時間がかかった。「ピンチ・トラブル・ハプニング!!」という原画展やウメ星デンカ&ドラえもん『パンパロパンのスッパッパ!』という13分のアニメも見たが、内容は思い出せない。
小田急線向ヶ丘遊園に2011年開館の「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」があることは知っていたが、機会があれば訪れたい。
高岡駅前の「ドラえもんの散歩道」
駅前には名産の銅細工のドラえもん、のび太、しずか、スネ夫、ジャイアン、ドラミなど12体の像の「ドラえもんの散歩道」もある。しかし、高岡には、山町筋、金屋町の古い商店の2本の街並みと祭りの山車の御車山会館、古城公園、国宝・瑞龍寺など多くの観光資源があるからか、もうひとつ迫力を欠いた。
53年暮れ、安孫子は新聞社を退職、2年足らずのサラリーマン生活だった。54年6月いよいよ2人は上京し、当初は江東区森下の安孫子の親戚宅で4か月暮らし、次に椎名町のトキワ荘14号室、それまで手塚治虫が住んでいた部屋に入った。ここで2人は人気作家になった。62年藤本が結婚し、63年には鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろうらとアニメーション・スタジオ「スタジオ・ゼロ」を中野で設立(2年後に西新宿・十二社へ移転)した。64年には「オバケのQ太郎」の連載を開始し、ますます2人は多忙になっていった。
1987年末に2人は独立を発表、コンビは37年続いた。とはいうものの、21エモン、ウメ星デンカなど、68年ごろから個人で発表していた作品もある。
もちろん2人は違う個性をもつ。藤本にとってSFとは「少し不思議」なことで、漫画の作り方はまずキャラクターをつくり、次にキャラクターを基に「ああでもない、こうでもない」とストーリーを考えるやり方だった。
そこから「21エモン」「ウメ星デンカ」「ドラえもん」「パジャママン」「キテレツ大百科」「エスパー魔美」などが生まれた。とくに「ドラえもん」は超・大ヒットで「コロコロコミック」という雑誌までできたほどである。
氷見の潮風ギャラリー
一方、安孫子はシュルレアリスムのデルヴォーやエルンストの絵が好きで、「忍者ハットリくん」「怪物くん」「プロゴルファー猿」「魔太郎がくる!!」「笑ゥせぇるすまん」「まんが道」「少年時代」などを描いた。サスペンスやブラックユーモアのセンスももつ。それにしても小学5年のクラスで知り合った2人が50歳代前半まで合作を続けヒット作を描き続けたことはひとつの奇跡だ。さらに、それで事実上の引退ではなく、亡くなるまで独自のヒット作品を生み出し続けたことは、2人がもともと優れた才能を持っていた証明でもある。
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