多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

事故からもうすぐ10年、福島・浜通りのいま

2020年12月01日 | 
東日本大震災東京電力・福島第一原子力発電所の事故から来年3月で丸10年になる。10年の時を経て、どのように「復興」が進んでいるのか福島県浜通りを見に行った。
被害は、津波、放射性物質の被ばく、それに伴う避難などからなるが、まず事故の概要と経緯を記す。
 2011年3月11日(金)14時46分 宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロでマグニチュード9.0 最大震度7(栗原市)の地震が発生
 約1時間後、波高10メートルの大津波が襲来 死者・行方不明者1万8428人(20年6.10現在 福島県は1810人)
   15:41 福島第一原発の全電源喪失
 11日19:03 緊急事態宣言発令
   20:50 半径2キロ以内の住民に避難指示   
 12日 5:44 半径10キロ以内の住民に避難指示
   15:36 1号機水素爆発(福島中央テレビが17キロ地点から自動撮影)
   18:25 半径20キロ以内の住民に避難指示
 14日11:01 3号機水素爆発
 15日 6:00 4号機水素爆発  放射性物質の大気中への大量漏えい東電の推定で合計 I-131で約500PBq)
4月21日   半径20キロ以内を警戒区域に設定(原則として立入り禁止)
12年4月19日 福島第一原子力発電所1-4号機廃炉決定
  7月   除染作業開始
14年1月31日 5-6号機廃炉決定
15年3月 1日 常磐自動車道富岡―浪江開通
  3月13日 仮置場に積んである除染土を、大熊町と双葉町につくった中間貯蔵施設へ搬入開始
9月 5日 楢葉町避難指示解除準備区域解除
16年7月12日 南相馬市居住制限区域および避難指示解除準備区域解除
17年3月31日 川俣町、浪江町、飯館村居住制限区域および避難指示解除準備区域解除
  4月 1日 富岡町居住制限区域および避難指示解除準備区域一部解除
19年4月10日 大熊町居住制限区域および避難指示解除準備区域一部解除
  4月20日 楢葉町、広野町のJヴィレッジ8年ぶりに全面営業再開
20年3月 4日 双葉町の一部避難指示解除
  3月14日 常磐線富岡―浪江開通(全線復旧)

福島市内の除染土壌仮置場。福島市内だけでもまだ32か所、全県では330か所残っている
さて、いま現地はどうなっているのか。
第一原発から70キロ離れた福島市内信夫山の除染土壌仮置場は、第一展望台からすぐの場所にあった。緑のビニールシートで覆われたフレキシブルコンテナ(フレコン)が山積みになっていた。福島から南相馬に向かうバスで、対向車の半分は10トンダンプ、うち半分くらいがフロントに「除染土壌等運搬車」の緑の表示板を付けていた。除染以外でも、道路、堤防の補修工事もたくさん行われているので土建国家ならぬ土建業全盛地域となっていた。
県の資料では、除染作業は帰還困難区域を除き2017年3月末に終了したことになっている。
フレコンに入れた除染土1400万立方mは仮置き場に積み上げられ、2015年から大熊町・双葉町の中間貯蔵施設へ10トンダンプ2400台/日で搬送している。5年たっても進捗率は68%、まだ2/3というところだ20年11月環境省調べ環境再生プラザで聞くと、2022年3月までに完了する予定で費用は4兆円、最終的には東電が支払うがいまは国が立替え払いとのことだ。東電が支払うといっても結局は国民が負担するということだろう。また中間貯蔵施設の汚染土はいまから25年後の2045年以降福島県以外の他県の最終処分場へ搬出する計画なので、先は相当長い。
除染といっても、基本的には表土を5センチほどはぎとっただけで、水田・畑などの農地は反転耕や深耕が中心だし、大きな面積を占める森林部分は住居などに隣接する範囲から20mまでの枝打ちや堆積物除去だけしかやっていない。
なお除染は環境省が担当するが、原発用地内は東電、経産省、資源エネルギー庁の管轄という区分だそうだ。

今年3月に運転再開した双葉駅近く
今年9月にオープンした双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学した。双葉駅は第一原発から直線で4.2キロ、駅舎も駅前広場も真新しい。今年3月の常磐線全通に合わせて新設したのだろう。駅周辺にポツポツと民家や飲食店が見える。また交差点近くにガソリンスタンドもあった。一見ふつうの町に見える。しかし、ふつうでないことがひとつある。住んでいる人が一人もおらず商店も開いていない、つまり無人の町なのである。そのわりには家屋の庭は整備されているので、ときどき家主が避難地から手入れに通っているのだろう。
開館より早い時間に到着したので伝承館から1キロほど先の浜に出ようと歩いてみた。
海岸近くでは重機を使って堤防補修工事をしている。当然、工事区間は「関係者以外立ち入り禁止」なので、回り込んで堤防に上ってみた。海は震災前と同様に広く大きい。しかし陸のほうに目を転ずると堤防工事がまだまだ進行中だ。南のほうに三角形の建物があった。マリーンハウスふたばだ。津波の際、3階に逃げた人が助かったそうだ。伝承館周辺では復興祈念公園をつくる計画で、現在基盤工事中だった。ところどころ古い建物の基礎の瓦礫が見られた。なかには公園工事のために解体したものもあるだろうが、津波の残骸もあっただろう。凄まじい自然災害だ。

伝承館は今年9月にオープンしたばかりだ。パネルで、原発を守る「五重の壁」の説明が掲示されていた。まずウラン燃料を固めたペレット、次にペレットを包む金属の被覆管、3番目に厚さ15センチの原子炉圧力容器、4番目に暑さ3センチの原子炉格納容器、最後に厚さ1mの原子炉建屋だ。
鉄壁の防御のはずだったが、津波による全電源喪失でポンプが回らず、冷却水が届かなくなったため空焚き状態になり、燃料ペレットが溶けた。次に被覆管も溶け、金属管はジルコニウム合金だったため水素が大量に発生し、水素爆発の原因になった。つまり事故を防ぐであったはずの被覆管が、いったん事故を起こすと矛になってしまったのだ。水素発生に備え窒素を入れる対策を予め施していたが、発生する水素が圧倒的に多く量的に間に合わなかったそうだ。原子炉圧力容器はメルトダウンし、燃料デブリが原子炉格納容器へ流下した。最後の建屋は4つのうち3つが水素爆発で破壊された。こうして未曾有の大事故が発生した。 
建屋が爆発しなかった2号機からの放射性物質の量が一番多いとあった。常識的には理解できないので質問すると、2号機がいちばん大型で燃料棒の数が多かったので、そういうことになったそうだ。なお、2号機はベントしなかったのに圧力が下がったのは、たまたま1号機の爆発で上部側面のブローアウトパネルが吹っ飛び、そこから気体が噴出したので爆発を免れたとのことだった。
4号機は定期点検中で運転を休止していたのに水素爆発したのはなぜか。3号機のダクトから水素が4号機に回り、水素爆発したと考えられるとのことだった。
第一原発のジオラマ展示があり、海岸から高台の免震棟の高低差がよくわかった。浜から消防ポンプ車がホースで水を汲み上げ、冷却水として利用していた様子もリアルに再現されていた。

伝承館2階ベランダより。右は4階建ての産業交流センター、わかりにくいが真ん中奥のほうにマリーンハウスふたばがある
見学中に、2号機で3.11当日も働いていたという関係会社の方にたまたま出会った。原発では東電社員だけでなく日立、東芝、三菱など関係会社の社員も多数働いている。事故の2年前に岩手でマグニチュード7近くの地震があったあと、ポンプが海岸際の低地にあるのは本当に危険であることがわかっていたので、免震重要棟がある高台に上げてほしいと申し入れたのに、「関係会社は黙っていろ」と黙殺されたと憤っておられた。また2号機のブローアウトパネルが破損した部分かから真っ黒の煙が吹き出しているのを目撃したそうだ。自衛隊のヘリから建屋に空中散布していた(たしかにTVニュースで見た記憶がある)。これは建屋の構造を考えると、なんの意味もないと当時も思っていたそうだ(ただし海水を汲み上げ下から放水冷却するのは意味があったとのこと)。また、いま問題になっている汚染水の海中放出も、じつは闇に紛れて深夜こっそり流していたそうだ。映画「Fukushima 50」でもやっていたように、3月12日早朝の菅首相視察はたしかに余計だったともおっしゃっていた。
体験者でないとわからないことをたくさん聞けた。その方の話をいっしょに聞いていた人が、こういう人こそ「語り部」にすべきだと館のスタッフに強く要望されていたが、たしかにそうだと思った。
福島県の避難者数は一番多かった2012年5月ごろ16万4800人だったが20年10月に3万5900人(県外2万9441人、県内7469人)に減った。とはいえまだ3万6000人もの人が避難している。なかには、いろんな事情であきらめてしまった人もいるだろう。
第一原発から20キロ圏内は全員避難だった。南相馬市は2006年に原町市、小高町、鹿島町が合併して誕生した。うち小高のみ20キロ圏なので12800人全員避難したが、いま帰還しているのは3500人だけだ(27%)。大熊町はさらに悲惨で町民10500人のうち153人しか戻っていない(1.5%)
富岡町で、駅から東電廃炉資料館に向かう途中、多くの真新しい集合住宅や戸建て住宅を見かけた。てっきり津波で流された家屋の新築かと思ったら、原発事故で避難していた人たちの復興住宅とのことだった。
戻ってきた人のなかには原発関連の仕事をしている人も結構多いという。ここが難しいところだ
伝承館の道路側に双葉町産業交流センターがあり10月1日にオープンした。もちろん「復興産業拠点」の中核だが、貸事務所3フロアのうち3階は東電がすべて借り、4階も一部東電が借用している。
震災直後、「原子力明るい未来のエネルギー」という双葉町の幅16mの看板(広告塔)が話題になった。昔もいまも第一原発は別の意味で町の産業の大黒柱になっているようだ。映画Fukushima50(若松節朗監督 松竹・KADOKAWA 2020)で第一原発 1・2号機当直長・伊崎(佐藤浩市)は出稼ぎの家に生まれ、小学生のとき、父が新設の原発関連会社で働くことになり「もう出稼ぎに行かなくてすむ」ことを知り大喜びした。中高生のころは学校から巨大な原発の見学に行った。そして自分も高校卒業後、東電に就職し作業員となる。年齢は吉田昌郎所長と同じという設定になっていた。原発とともに育ち、働いている人は実際にいるだろう。
また第一原発は大熊町・双葉町、第二原発は富岡町・楢葉町の2町にまたがっているが、これも各自治体の財政的な事情によるものだそうだ。

東京電力廃炉資料館 第二原発のPR施設「エネルギー館」を利用し、アインシュタイン、エジソン、キュリー夫人の3人の生家をイメージした建屋
最後に富岡町の東京電力廃炉資料館を見学した。汚染水浄化装置ALPS、1-3号機の格納容器内の調査や残骸取り出し作業のため開発したロボットと現在のデブリの様子などの説明パネルが掲示されていた。説明文のなかに「おごりと過信」があり「深く反省」しているとの文言はあったが、10年たってもこれだけの被害が残っているのを目の当たりにすると、何だかなあという気になる。
10年前の事故のころ、よくニュースに出てきた「ベントの開放作業」はどんなことだったか忘れたのでスタッフに質問した。弁を開く作業で、開けば放射性物質を含む蒸気が大量排出されるが、圧力抑制室のプールの水で希釈されるので、濃度がかなり薄まるとのことだった。原子炉容器がメルトダウンしたのに、なぜ幸いにも格納容器で止まっている(と考えられる)のか聞いてみた。すると燃料棒を挿入する作業のため下には穴が開いているので、溶けた金属が下に落ちるのは当然なのだそうだ。2号機には137本分の穴があると、図解の絵まで書いて説明していただき、たいへん丁寧で、その点は評価できる。
しかし、東電刑事裁判で政府の地震調査研究推進本部の評価をもとに、最大15mの津波が押し寄せる可能性があることを東京電力は2008年3月ごろ認識し、対策も社内で提案されていたのに7月末の会議で、武藤栄副社長が反故にした(いわゆる卓袱台返し)ことが判明している。
年表をみると、79年のスリーマイル島事故、86年のチェルノブイリの惨事、99年の東海村JCO事故で2人死亡、など日本の原発政策を転換するチャンスは何度もあった

これは福島市内の話だが、たまたま震災復興パネル展を開催していた。受付の女性に市内の除染状況について尋ねたが明快な答えは返ってこなかった。少し話を聞くと、震災当時は小学生で、学校の講堂に避難し親が迎えにくるのを待ったとのことだった。10年たつと、すっかり大人になっている。人は平等に1年に1歳年をとるので当然だ。しかし10年たってもとりわけ浜通りには目にみえるかたちで被害がまだまだ残っていた。今年2月と3月、聖火リレーが予定された時期にJヴィレッジと福島市あづま公園で「福島はオリンピックどこでねぇ!」というイベントがあったそうだ。

旅行者としてみると、福島の人は、施設のスタッフだけでなく、店の人、街頭で道をお聞きした人などみな親切だった。ただ観光客にあまり慣れていないようで、自分たちのまちの魅力やスポットがあまり頭になく、そのためPR下手、説明下手のようなところがあった。
各施設も撮影禁止のところが大半で、こちらが次の予定があり時間に追われていたせいもあるが、十分に見られなかったところが多かった。
福島が「花と果物のまち」「海の幸のまち」へ復興し、たとえば住民の大多数が避難中の大熊町の昔の写真パネルで見た「じゃんがら念仏踊り」がが復活すれば、ふたたび観光の町に戻れるだろう。

☆小高の埴谷・島尾記念文学資料館に行った。浮舟文化会館という施設内にある。実のところ埴谷雄高1909―97本名・般若豊はんにゃ・ゆたか)は台湾・新竹生まれで14歳以降は東京、島尾敏雄(1917―86)は横浜生まれ神戸育ちで、小高に住んだことはない。父が小高出身というだけである。しかし埴谷は
帰京してから、11月18日に「JR上野駅公園口」の英訳版で全米図書賞を受賞した柳美里が小高でフルハウスという書店を営んでいることに気づいた。南相馬に定住していることは知っていたが、書店からわずか50mほどのところを歩いていたことを知り、訪ね損ね惜しいことをしたと後悔した。


●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。「雄高は小高に発セリ」という書を残しており、島尾は1986年69歳で逝去したが、1か月後に小高で法要が営まれた。また二人の出会いについて島尾が書き残している。「そいじゃ岡田の有山の般若さんでしょ」「そうだ」(「わたしの埴谷体験」)
この資料館には島尾の「般若の幻」、埴谷の「世代について」の生原稿もあり、予想以上に充実していた。埴谷の仕事部屋の写真が展示されていた。こたつの上に丸ぶちメガネやミカンがあるのは普通だし、段ボール箱入りの缶ビールのセットやウィスキーのビンがあるのも想定内だ。しかし光文社のファッション月刊誌「CLASSY」があったのは意外で興味深かった。

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