6月下旬にアップした藤子不二雄の足跡やギャラリーのほかに、富山・高岡の旅でみたものをいくつか書き記しておく。
高岡から7キロほど北東、小矢部川の河口、日本海に面したところに伏木の町がある。奈良時代に越中の国府が伏木に置かれ、大伴家持が746年に赴任し、5年間の在任中に200首以上の和歌を詠んだと伝えられる。
望楼(写真中央)のある伏木北前船資料館
江戸時代には北前船の拠点港のひとつで、秋元家・屋敷跡に伏木北前船資料館がある。引き札(江戸・明治の宣伝チラシ)や家具など貴重な史料も多く、廻船業だけでなく、宿屋も経営していたとのことで家屋自体が立派だった。とくに船の出入りを見張る望楼まで備えているのは驚きだった。
さて、この資料館で昆布ロードという言葉を聞いた。さらに昆布の密貿易に富山の薬売りが関係したとか驚くような話で、ひょっとすると忍者でも関係しているのかと思った。好奇心をそそられ、「海の懸け橋 昆布ロードと越中」(北日本新聞社出版部 2007年6月)という本があることを教えてもらい、帰京してから図書館で借りて読んでみた。以下はこの本で知ったことである。
大前提として、この時代の水運の重要性がある。トラックも貨物列車もない時代、陸送は馬や牛がメインとなる。それに比べ船で物資を運ぶ水運は運搬量がケタ外れだった。このことは東京海洋大学明治丸記念館の2年前の企画展で、関西からの樽廻船での酒運搬や利根川を利用した高瀬舟による上州からの米、絹綿などの水運の例で知ってはいた。また北前船の活躍が、北陸銀行(本店:富山市)の支店の北海道や日本海側都市への広がりをもたらしたというトピックスも知っていた。
北前船は、たしかに蝦夷地の昆布、イリコ、ニシンといった特産物を本土に持ち込んだが、逆に米や繊維製品を送り込む交易をおこなった。
もちろん、海運の発達の背景には、河村瑞賢などが行った航路の開拓、小型船から400石程度詰める羽賀瀬船や北国船、さらに1000石も詰める弁財(べざい)船といった船体の大型化、港の整備、灯台や番屋の整備などいろんな条件の進歩もあったろう。当初は松前から敦賀に船で運び、琵琶湖経由で運送した。しかし積替え中に荷こぼれができたり運送料が高く、船が大型化すると下関回りで大坂に運ぶ西回り航路のほうが安くなった。
館内の昆布ロードの説明パネル
●越中の薬売りと薩摩
富山では2代藩主・前田正甫(まさとし)が17世紀後半から反魂丹(はんごんたん)など薬業振興政策を打ち出した。作るだけでなく売るほうにも力を入れ、まず各戸に薬を「置き」、翌年訪ね使った分だけ補充し金を受け取る「先用後利」の売り方で各地に商売を拡大していった。1704年に越中の売薬が弘前に現れたという記録もある。
北前船を使い、同じ行商先のもの同士が「仲間組」を発足させ、関東組、五畿内組、四国組、九州組などがあったが、そのなかに「薩摩組」もあった。北前船が下関で薬箱を下ろし、南九州で行商し始めた。
一方、薩摩の島津藩は三方を山に囲まれ平野は火山灰に覆われ、稲作に不向きな藩だった。1609年薩摩は琉球侵攻し、琉球経由の対中国貿易を独占した。ただ1639年鎖国令が出て、正式ルートは長崎の出島だけだったが、幕府は鎖国令2か月後、長崎奉行から島津氏あてに琉球からの生糸や巻物、薬種の仕入れを許可する書状を出し、補助貿易の窓口にした。ただ量を制限することが命じられた。
琉球から中国への輸出品は、当初は銀だったが、1700年代にはフカヒレや干しアワビ、いりこなどの入った俵や昆布など蝦夷地の海産物に移った。島津は昆布に目をつけた。中国の風土病に対し、ヨードを含む昆布は漢方薬の原料として重宝され、高値で取引されたからだ。薩摩藩の船は1804(文化元)年ごろから薬種や輪島塗の原料となる朱、陶磁器などを積み、主に新潟の回船問屋で唐物を売りさばき、昆布や俵物を持ち帰った。
ただこれは密貿易であり、幕府は「抜け荷」として目を光らせた。1835,1840に2度抜け荷を摘発。1843幕府は新潟湊を長岡藩から没収して直轄としたので、薩摩藩は日本海側の取引拠点を失った。
富山の売薬グループ「薩摩組」は、領内への立ち入り禁止(差止処分)を免れるため1832年から毎年1万斤(=6000㎏)の昆布を献上してきたが、いっそう多く昆布を提供するため自前で船をもち、1847(弘化4)年薩摩藩は薩摩組に資金を渡し、松前で昆布を買い付け、運搬させるようになった。見返りとして中国からの薬種を受け取った。正規ルートの大坂・道修町の薬種問屋より、良質の原料を安く入手することができた。こういう結びつきがあった。
ただ、明治に入り、北前船は急速に力を失った。蒸気船のせいだ。蒸気船は北前船の3~6倍の積載量で、スピードも早く、太刀打ちできなかったからだ。岩崎弥太郎の三菱汽船が境(鳥取)、敦賀、伏木、新潟、佐渡の航路を開設した。北前船の乗組員は北海道、樺太など北洋漁業の漁船員に転身していった。
●伏木気象資料館
登録有形文化財の建屋
伏木北前船資料館から400mほど南に行ったところに伏木気象資料館がある。現在は高岡市の施設で、その前は気象庁の公式施設だったが、1877年に開設されたときは伏木最大の廻船業者・藤井能三(のうそう)が私費で建てたものだ(場所は現在より1㎞ほど東の海岸近く)。1865年、藤井は加賀藩の御用人として神戸に出張し大きな汽船でにぎわう港を目にした。また三菱の岩崎弥太郎と知り合い、伏木への寄港を要請したところ、港の整備が条件おひとつとされた。港整備の一環として洋式燈明台を建設し、その一室が測候所、つまり気象資料館のはじまりの姿である。
過去の気象データが保管されているだけでなく、1999年に特別地域気象観測所に移行し、現在も伏木特別地域気象観測所として、地上気象観測、震度観測を行っている。
明治期に建設された庁舎と1938年建設の測風塔は2006年に登録有形文化財に指定されている。
●廻船業者からの寄付でできた旧制富山高校
馬場記念公園に復元された正門 向かって左の柱に「富山高等学校」の文字がある
富山駅から富山地方鉄道で岩瀬浜に向かう途中、蓮町の駅近くに馬場記念公園という5ha弱の大きな公園がある。ここには1925年から1950年まで7年制の旧制・富山高等学校があった(創立当初は東岩瀬の仮校舎で授業開始)。
岩瀬の廻船問屋、3代馬場道久が亡くなったあと事業を仕切った妻・馬場はる(1886-1976)が県に寄付した160万円(現在の金額で160億円 駅の説明板による)を基に設立された学校だ。
旧制高校のうち、ナンバースクールは1908年の八高(名古屋)で終了、1919年から新潟、松本、水戸など地名の高校ができたが、内地の高校は37校に過ぎない。そのなかで7年制は、通常、中学5年、高校3年かかるところ1年短縮して大学進学できるので、人気が高かった。たとえば官立の東京高校、大阪高校、公立の府立高校(東京)、浪速高校(大坂)、私立の武蔵、成蹊、成城、甲南などである。富山高校は県立で設立され、1943年に官立移管した。
たしかに武蔵は東武の根津、成蹊は三菱財閥の資金で開校したが、地方の富山にそんな学校があったとは、廻船業者の資金力に驚いた。
公園の北西隅に復元された正門があった。
●反魂丹の製造販売元・池田屋安兵衛商店
反魂丹の製造機械、丸薬の手動カットまで行う
北前船など海運関係だけでなく、製薬・売薬関係の資料館もあった。
富山駅から1㎞ほど南に、胃腸障害、消化不良などの薬として全国に知られる漢方薬・反魂丹の製造販売元・池田屋安兵衛商店がある。この店そのものは江戸時代から営業していたわけでなく、創業90年ほど、反魂丹の製造は戦後のことだ。
無料の体験教室があった。伝統ある製造機械を使い、スタッフが黒く粘り気のある粒をカットして並べてくれる。上から板をのせローリングさせ丸くする体験をさせてもらった。圧力が高いとつぶれたり、力の入れ方に傾きがあると列が乱れる。観光客5-6人が挑戦したが、意外にも海外からの方が上手だった。
店内は、復元かもしれないが、昔ながらの店のディスプレイにし反魂丹だけでなく、葛根湯、実母散、八味丸、茯苓丸、芍薬散、延寿湯などさまざまな漢方薬が販売されていた。
その他、「天然のいけす」富山湾のなかでも有数の漁港、氷見のひみの海探検館、堀田善衛、木崎さと子など県とかかわりのある作家の資料が並ぶ高志の国文学館、祭礼用車の金属製装飾品が見事だった高岡御車山会館、「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容」という大規模な写真作品の企画展を開催していた県立美術館など、印象に深い博物館・美術館も多いが、話がどんどん膨らみ止めどなくなるので、このあたりで留めておく。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。