12月23日、天皇誕生日に「民主党政権下の象徴天皇制 「リベラリズム」とナショナリズム」という討論集会が開催された(主催:反天皇制運動連絡会)。会場の千駄ヶ谷区民会館近くの道路はいつものように右翼の街宣車と機動隊の車両、警官でいっぱい、会場前は公安がずらりと並んでいた。一方、会場の中も満席で立ち見の人もいた。
発言者は太田昌国さん(民族問題研究)、浜邦彦さん(早稲田大学教員)、天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)の3人だった。わたくしには浜さんの、若者の間のコミュニケーションや社会観など現代若者論が興味深かったので、浜さんのお話を中心に紹介する。
早稲田で学生と日常的に接していて、若い人は自分のことにしか興味がないと強く感じる。今年の1年生のゼミでは「貧困と格差問題」をテーマにしている。こういうテーマのゼミですら、学生は自己責任論が好きで、「本人が悪いか、社会が悪いか」という乱暴な二分法でしか社会との関わりを考えられない。社会と関わりたくない、変なかたちで関わるとそれが見たくない社会への入り口になるという恐怖感が強い。社会に関わることは自分の利益を損なう非合理的行動だとして遠ざけているようだ。
一度、競争社会からはずれると際限なく滑り落ちることを敏感に意識し、3年に進学すると就活に入り、自分のことだけでせいいっぱい、ゼミが成り立たない状況になる。
また社会との関わりだけでなく、他者との関わりを恐れている。他人からの批判を受け入れられない。だから「人格を否定するようなことを言わないでください」というかなり深刻な言葉を簡単に口にする。なぜ他人との関わりを恐れるのか。これも「勝ち組対負け組」という乱暴な二分法でしか判断できないからだ。
「ネオリベラリズムの精神分析」(樫村愛子 光文社新書 2007)という本がある。再帰性と恒常性という対比的な概念を使ってコミュニケーションのあり方の変化を捉えている。今の若者のコミュニケーションには再帰性(自分や自分の行為を意識的に対象化すること reflexivity)しかない。コミュニケーションの内容には関心がなく自分がどういうコミュニケーションを行っているかということ(再帰性)にのみ意識が集中し、「あなたはわたしにどういう語り方をする人か」というところからしかコミュニケーションが始まらない。スタイルが違うと私は関係ないと排除する。相手のメッセージの内容ではなく、伝え方を確認しないと話ができない。
典型例がテレビのお笑い番組やバラエティ番組のタレントたちだ。あの人たちの役割は、「ここが笑うタイミングですよ」と指示を出すことだ。指示は、テロップによる文字や隅に小さくでる四角いモニター画面のなかのタレントの表情で示される。みんなでいっしょに笑ったり泣いたりして安心する。
それに人間は耐えられるのだろうか。本当は伝統や文化といった恒常性への期待が高まっているはずである。しかし彼らは期待をどう表現してよいかわからない。
別の角度から問題を取り上げる。彼らは在特会に共感しないまでも、動員させられる危険性がある。「ゼロ年代の想像力」(宇野常寛 早川書房 2008)というサブカルチャー論の本がある。90年代の引きこもりが0年代にバトルロワイヤルになったというのがテーマだ。90年代には自分のキャラに引きこもり、キャラが周囲に承認されることだけを求めた。「自分がこういうことをしてきた」というストーリーではなく、自分は「こういうキャラ『である』」ということだけの承認である。エヴァンゲリオンのような、引きこもりの少年が解離的な現実、自分とまったく関係のない戦争に巻き込まれるアニメが支持された。そのなかに戦闘美少女ものがあり、君とボクの閉じた関係がいきなり世界に結びつく物語があった。
ところが2000年代になると引きこもっていたのでは生きていけなくなり、無根拠な決断主義が出てきた。その場その場で空気を読んで、相手に合わせてキャラを使い分けないと生きていけない時代になった。向こう見ずな決断主義はかえってヤバイのではないかというのが宇野さんの主張である。
わたしも、若者が何かを選ぼうとしていることを実感する。そのとき彼らの不幸はロールモデルがないことだ。かつては長嶋茂雄なり大スターがいた。そこにミチコのような深い共感能力をもつ人間が同一化の対象として出てきたら、いっぺんに動員されてしまうかもしれない。彼らのサバイバルゲームは、回りの空気を読み、その場に合わせることだ。合わせられなければ排除される。彼らは小学生や幼稚園のときからイジメというサバイゲルゲームを続けている。「空気」こそ日本でもっとも恐ろしいものだが、その空気が排外主義や天皇制と重なってくるときこそ、危機である。
樫村さんの本には、自己啓発セミナーやマクドナルドの例が取り上げられている。自己啓発セミナーに教祖はいない。お互いをどう認識しているかを話すうちに心理的ブロックが解除され、自分のことだけやっているうちに幸福感が生まれ、バラバラなのに幸福感だけが共有される。教祖はなくロールモデルはいないのに、想像的な同一化が起こる。
マクドナルドのアルバイトにも似たようなことが起こる。一生懸命与えられた仕事をこなすうちに多幸感を感じるようになる。バイトをやめるときには、いったん自分の人格をリセットしないといけなくなるほどにまでなるという。こういう状況で、たとえば拉致被害者に同一化しないといけないというような空気が社会全体にひろがったとき、こわい。
こういう社会で、公共的なものの位置はどこにあるのか。日本語の公共の「公」(オフィシャル)と「共」(みんなのもの 開かれていること)は相当分離している。たとえば渋谷の宮下公園をナイキに独占使用させる計画が浮上したり、大学の私企業化がどんどん進み公共性が失われている。
民主党政権の誕生により、国家の役割を考え直そうという機運が社会的に生まれている。新自由主義の下、企業の利益を最大に高めるよう経済のボーダーレス化が進み、国家の役割は福祉から監視に変わり、ランキング社会、格付け社会が進展した。新自由主義があまりにも浸透し、みんなで有限なパイを奪い合う競争社会になったが、分配に与れない人があまりにも増え、自民党政権のやり方ではうまくいかないという感覚が生まれている。
一方で「みんなのもの=コモン」が若い人のあいだで希求されている。たとえばプレカリアートのメーデー、反貧困ネットワーク、フリーター全般労組などの動きだ。「公」が抑圧的に日本社会を押さえつけていたが、ほころぶだらけになった。そして異質なものが現われ、つながり始めている。もしかするとこのなかにコモンの次元が出てきているのではないだろうか。
太田さんは、民主党政権下で実現するかもしれない韓国併合100年の天皇皇后訪韓について、和田春樹氏や大沼保昭氏が「高宗の墓に詣でて謝罪の意思を表し犠牲者を悼むべき」と主張していることに対し、板垣竜太氏の「韓国の戦後過程をみると王家の復位を主張する政治勢力はない」という指摘を引用して、天皇の位置について自分で考えない学者を批判した。そして、かつてのように美空ひばり、長嶋茂雄、昭和天皇といったスターがなく、「ドス子の事件簿」のようなマサコを揶揄するサイトが登場し、国民国家的公共空間が希薄になった社会のなかで、なぜ大沼氏らが国家間の事態を打開する手段として天皇を持ち出すのか、理解しがたいと述べた。
天野さんは、天皇と中国副主席の会見に関する「天皇の政治利用問題」について、小沢がいう「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行われる。民主主義下で政治が天皇をコントロールするのは当然」という論と新聞が主張する「天皇の政治利用はよろしくない」という論は、戦後リベラルな憲法学者がレールを敷いた天皇を規制する理念の裏と表に過ぎない。これは占領民主主義が内包する矛盾にもともとの原因があり、奥平康弘氏の「そもそも天皇は政治的存在」という東京新聞でのコメントを援用し、いまこそ天皇制とは何か入口に戻って考えるべきだと主張した。
☆この日も右翼の街宣車が多数登場し「反天連フーンサイ」「解散セヨー」のシュプレヒコールを繰り返していた。8月15日の集会のときのような「主権回復を目指す会」や「在日特権を許さない市民の会」の姿はみられなかった。右翼を完全にシャットアウトした会場前には公安がずらりと並んでいる。終了した18時ごろもまだいたが、寒い中御苦労さまなことだ。
発言者は太田昌国さん(民族問題研究)、浜邦彦さん(早稲田大学教員)、天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)の3人だった。わたくしには浜さんの、若者の間のコミュニケーションや社会観など現代若者論が興味深かったので、浜さんのお話を中心に紹介する。
早稲田で学生と日常的に接していて、若い人は自分のことにしか興味がないと強く感じる。今年の1年生のゼミでは「貧困と格差問題」をテーマにしている。こういうテーマのゼミですら、学生は自己責任論が好きで、「本人が悪いか、社会が悪いか」という乱暴な二分法でしか社会との関わりを考えられない。社会と関わりたくない、変なかたちで関わるとそれが見たくない社会への入り口になるという恐怖感が強い。社会に関わることは自分の利益を損なう非合理的行動だとして遠ざけているようだ。
一度、競争社会からはずれると際限なく滑り落ちることを敏感に意識し、3年に進学すると就活に入り、自分のことだけでせいいっぱい、ゼミが成り立たない状況になる。
また社会との関わりだけでなく、他者との関わりを恐れている。他人からの批判を受け入れられない。だから「人格を否定するようなことを言わないでください」というかなり深刻な言葉を簡単に口にする。なぜ他人との関わりを恐れるのか。これも「勝ち組対負け組」という乱暴な二分法でしか判断できないからだ。
「ネオリベラリズムの精神分析」(樫村愛子 光文社新書 2007)という本がある。再帰性と恒常性という対比的な概念を使ってコミュニケーションのあり方の変化を捉えている。今の若者のコミュニケーションには再帰性(自分や自分の行為を意識的に対象化すること reflexivity)しかない。コミュニケーションの内容には関心がなく自分がどういうコミュニケーションを行っているかということ(再帰性)にのみ意識が集中し、「あなたはわたしにどういう語り方をする人か」というところからしかコミュニケーションが始まらない。スタイルが違うと私は関係ないと排除する。相手のメッセージの内容ではなく、伝え方を確認しないと話ができない。
典型例がテレビのお笑い番組やバラエティ番組のタレントたちだ。あの人たちの役割は、「ここが笑うタイミングですよ」と指示を出すことだ。指示は、テロップによる文字や隅に小さくでる四角いモニター画面のなかのタレントの表情で示される。みんなでいっしょに笑ったり泣いたりして安心する。
それに人間は耐えられるのだろうか。本当は伝統や文化といった恒常性への期待が高まっているはずである。しかし彼らは期待をどう表現してよいかわからない。
別の角度から問題を取り上げる。彼らは在特会に共感しないまでも、動員させられる危険性がある。「ゼロ年代の想像力」(宇野常寛 早川書房 2008)というサブカルチャー論の本がある。90年代の引きこもりが0年代にバトルロワイヤルになったというのがテーマだ。90年代には自分のキャラに引きこもり、キャラが周囲に承認されることだけを求めた。「自分がこういうことをしてきた」というストーリーではなく、自分は「こういうキャラ『である』」ということだけの承認である。エヴァンゲリオンのような、引きこもりの少年が解離的な現実、自分とまったく関係のない戦争に巻き込まれるアニメが支持された。そのなかに戦闘美少女ものがあり、君とボクの閉じた関係がいきなり世界に結びつく物語があった。
ところが2000年代になると引きこもっていたのでは生きていけなくなり、無根拠な決断主義が出てきた。その場その場で空気を読んで、相手に合わせてキャラを使い分けないと生きていけない時代になった。向こう見ずな決断主義はかえってヤバイのではないかというのが宇野さんの主張である。
わたしも、若者が何かを選ぼうとしていることを実感する。そのとき彼らの不幸はロールモデルがないことだ。かつては長嶋茂雄なり大スターがいた。そこにミチコのような深い共感能力をもつ人間が同一化の対象として出てきたら、いっぺんに動員されてしまうかもしれない。彼らのサバイバルゲームは、回りの空気を読み、その場に合わせることだ。合わせられなければ排除される。彼らは小学生や幼稚園のときからイジメというサバイゲルゲームを続けている。「空気」こそ日本でもっとも恐ろしいものだが、その空気が排外主義や天皇制と重なってくるときこそ、危機である。
樫村さんの本には、自己啓発セミナーやマクドナルドの例が取り上げられている。自己啓発セミナーに教祖はいない。お互いをどう認識しているかを話すうちに心理的ブロックが解除され、自分のことだけやっているうちに幸福感が生まれ、バラバラなのに幸福感だけが共有される。教祖はなくロールモデルはいないのに、想像的な同一化が起こる。
マクドナルドのアルバイトにも似たようなことが起こる。一生懸命与えられた仕事をこなすうちに多幸感を感じるようになる。バイトをやめるときには、いったん自分の人格をリセットしないといけなくなるほどにまでなるという。こういう状況で、たとえば拉致被害者に同一化しないといけないというような空気が社会全体にひろがったとき、こわい。
こういう社会で、公共的なものの位置はどこにあるのか。日本語の公共の「公」(オフィシャル)と「共」(みんなのもの 開かれていること)は相当分離している。たとえば渋谷の宮下公園をナイキに独占使用させる計画が浮上したり、大学の私企業化がどんどん進み公共性が失われている。
民主党政権の誕生により、国家の役割を考え直そうという機運が社会的に生まれている。新自由主義の下、企業の利益を最大に高めるよう経済のボーダーレス化が進み、国家の役割は福祉から監視に変わり、ランキング社会、格付け社会が進展した。新自由主義があまりにも浸透し、みんなで有限なパイを奪い合う競争社会になったが、分配に与れない人があまりにも増え、自民党政権のやり方ではうまくいかないという感覚が生まれている。
一方で「みんなのもの=コモン」が若い人のあいだで希求されている。たとえばプレカリアートのメーデー、反貧困ネットワーク、フリーター全般労組などの動きだ。「公」が抑圧的に日本社会を押さえつけていたが、ほころぶだらけになった。そして異質なものが現われ、つながり始めている。もしかするとこのなかにコモンの次元が出てきているのではないだろうか。
太田さんは、民主党政権下で実現するかもしれない韓国併合100年の天皇皇后訪韓について、和田春樹氏や大沼保昭氏が「高宗の墓に詣でて謝罪の意思を表し犠牲者を悼むべき」と主張していることに対し、板垣竜太氏の「韓国の戦後過程をみると王家の復位を主張する政治勢力はない」という指摘を引用して、天皇の位置について自分で考えない学者を批判した。そして、かつてのように美空ひばり、長嶋茂雄、昭和天皇といったスターがなく、「ドス子の事件簿」のようなマサコを揶揄するサイトが登場し、国民国家的公共空間が希薄になった社会のなかで、なぜ大沼氏らが国家間の事態を打開する手段として天皇を持ち出すのか、理解しがたいと述べた。
天野さんは、天皇と中国副主席の会見に関する「天皇の政治利用問題」について、小沢がいう「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行われる。民主主義下で政治が天皇をコントロールするのは当然」という論と新聞が主張する「天皇の政治利用はよろしくない」という論は、戦後リベラルな憲法学者がレールを敷いた天皇を規制する理念の裏と表に過ぎない。これは占領民主主義が内包する矛盾にもともとの原因があり、奥平康弘氏の「そもそも天皇は政治的存在」という東京新聞でのコメントを援用し、いまこそ天皇制とは何か入口に戻って考えるべきだと主張した。
☆この日も右翼の街宣車が多数登場し「反天連フーンサイ」「解散セヨー」のシュプレヒコールを繰り返していた。8月15日の集会のときのような「主権回復を目指す会」や「在日特権を許さない市民の会」の姿はみられなかった。右翼を完全にシャットアウトした会場前には公安がずらりと並んでいる。終了した18時ごろもまだいたが、寒い中御苦労さまなことだ。