多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

国立近代美術館工芸館、さらば。

2020年02月20日 | 美術展など
竹橋の国立近代美術館工芸館が金沢に移転するという。最後の作品展「パッション20――今みておきたい工芸の想い」をみた。
展示作品は150点あまりで、5ブロック、そのなかの小さいキーセンテンス見出し20に分けて展示されていた。キーセンテンスとは「作ってみせる」「囲みとって賞でる」「私は旅人」「オブジェ焼き」「オブジェも器も関係ない」といったセンテンスのことである。

会場に入ったとたん、きらびやかな七代錦光山宗兵衛「上絵金彩花鳥図蓋付飾壺」や初代宮川香山「色入菖蒲図花瓶」があり、11番キーセンテンスはその名も「人間国宝」で、松田権六の蒔絵、黒田辰秋の螺鈿や盛器など人間国宝11人の13作品が並んでいる。入口外の普通に座れる長椅子が、驚いたことに黒田の作品なのだから、なんとも贅沢な展覧会だった。

初代宮川香山「色入菖蒲図花瓶
5つのブロックの解説を読むと、明治以降、2019年までの150年の工芸の大きな流れを理解できるようになっていて、学ぶところが大きかった。原文はパネル1枚分と長く、詩的な言葉で書かれていたので、下記説明にはわたくしの解釈の間違いがありうる。
明治新政府は殖産興業を推進し、世界に対して文化国家日本をアピールするために工芸が有意であることに気づいた。日本の工芸は、花鳥風月に「あはれ」「をかし」と感嘆した日本人の自然観を基礎として図案化したものが多い。たとえば初代宮川香山「鳩桜花図高浮彫花瓶」加納夏雄「蘭図香合」である(ブロック1「日本人と『自然』」)。
維新直後の1873年ウィーン万博から国際展に出展し始めたが、美術品ではなく装飾品としてしか扱われなかった。美術商・林忠正の働きかけもあり、1893年シカゴで行われたコロンブス世界博で、会期の途中から初めて美術品の展示に移動された。このとき展示されたのが「十二の鷹」だった。「パッション20」では、福本繁樹「四曲屏風」(1959)の上に鈴木長吉「12匹の鷹」(1893)が展示されていたが、これはすごかった。屏風の上に止まり静止したり、いまにも飛び上がろうとしていたり生きているリアルな鷹そのものだ! 世界のひのき舞台に日本の工芸が登場した「オン・ステージ」(ブロック2)である。

ブロック3「回点時代」
1890年東京美術学校に美術工芸科が設置され、アカデミズムによる工芸教育が始まった。
農商務省は1913年「第1回図案及び応用作品展」を開催し、産業としての工芸振興が図られた。1926年ヨーロッパ留学から帰国した鋳金科教授・津田信夫(しのぶ)moderne(現代的)の必要性を説き、工芸団体无形(むけい)を結成し、金工の高村豊周杉田禾堂らが活躍し、近代人の視点から工芸美を追求した。1927年には帝展に第4部美術工芸部が開設された。このブロックでは「モダンv古典」(たとえば杉田禾堂「用途を指示せぬ美の創案」)、「キーワードは『生活』」(例 杉浦非水のポスター「銀座三越四月十日開店」)、「古陶磁に夢中」(例 石黒宗麿「唐三彩馬」)などさまざまな流れがみられる。繰り返しになるが、追求するものは「近代人の視点からの工芸美」だった。

杉浦非水「銀座三越四月十日開店」
ブロック4「伝統⇔前衛」で舞台は戦後初期の時代に変わる。1954年に日本伝統工芸展(日本工芸会主催)がスタートしたが、この「伝統」という名称はもっとも早い時期の使われ方だった。この時期に重要無形文化財指定や人間国宝の認定制度が始まった。一方「前衛」は、1948年京都の陶芸家、八木一夫鈴木治らが走泥社を結成し、「前衛」を先導した。
1980年代には「工芸的造形」という概念が現れ、様式や活動の場を超えるキーワードになった。
このブロックも、一方では「人間国宝」「日本趣味再考」「日常」(例 芹沢銈介「1948年のカレンダー」)という「伝統的」なキーセンテンスと同時に、片方で「オブジェ焼」(例 熊倉順吉「座」)、「『工芸的造形』への道」(例 幅9mもある巨大な銅板のオブジェ 橋本真之「果樹園――果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」、「素材との距離」(例 田嶋悦子「Cornucopia 08-Y2」)という前衛的な流れが見られた。

松井康成「練上嘯裂文大壺 西遊記」
ブロック5工芸ラディカル
90年代は「オブジェでなければ作品ではない」という雰囲気だったが、ガラス作家高橋禎彦は「オブジェも器も関係ない」と発言し作家たちに衝撃を与えた。ただ高橋も2000年代なかばには「造形というだけでは足りないのかもしれない。コップか茶碗か、名前がつく物にはそれぞれに即した定義がある」と方向を修正した。
工芸の事象と作り手個人の感興を意識的に重ね合わせる傾向が浮上してきた、と解説文に書かれていた。
このブロックには「瞬間、フラッシュが焚かれたみたいだった」(北村武資「浅黄地透文羅裂地」)、「当事者は誰か」(例 留守怜「冬芽」)などのキーセンテンスがつけられていた。
「人形は、人形である」の作品は四谷シモンの「解剖学の少年」1点だけだった。ただし日本の人形の系譜は、平田郷陽「桜梅の少将」(1936)鹿児島寿蔵「紙塑人形 大森みやげ」(1958)のように連綿と続いている。
このブロックの作品は、四谷の「解剖学の少年」の人形が1983年でもっとも古く、大半が90年代から2010年代、新しいものは2019年制作の築城則子や留守玲、高橋禎彦の作品だった。現在進行形の展示だったので、まだ分析しきれないのだろうと思った。

高橋禎彦「それも謎」
工芸作品は、高校生のころ見た富本憲吉の陶磁器、国立博物館でみた螺鈿や刀剣、ここ10年ほど毎年国展でみている「織」など好きなジャンルが多い。レベルの高い作品が多く並ぶこの展覧会をみて、自分の好みがよりはっきりわかった。たとえば、初代宮川香山の色・形ともすっきりした「色入菖蒲図花瓶」、富本憲吉の白磁「八角蓋付壺」と金キラで派手な「金銀彩羊歯文八角飾箱」、松田権六の蒔絵螺鈿有職文筥」、赤地友哉の赤と黒のシンプルなデザインの「曲輪造彩紅盛器」、黒田辰秋のドッシリした「欅拭漆彫花文長椅子」などで、これまで何度かみたものもある。
富本の白磁(1932)は「青鞜」編集部に1年半ほどいた尾竹紅吉と結婚し18年目の作品、しかし1945年に別居し、1950年に64歳で京都市立美術大学教授になった。63年6月学長在任中に77歳で死去しているので、豪華な金銀彩飾箱(1959)は晩年の作だ。

富本憲吉「金銀彩羊歯文八角飾箱」
その他、兵庫県立美術館で見た荒木高子「砂の聖書」に再会できたのもうれしいことだった。
今回初めてみてすばらしいとおもったのが築城則子の小倉織のたて縞模様の作品群だった。6点とも残念ながら撮影禁止だった。築城は学生時代にみた古典芸能の舞台で装束の袖や裾に重なる色の様相に魅了され織物制作の道に進んだそうだ。のセンスが抜群だった。
色の並列なら縞、それができるだけ長くどこまでも続く状態を着地させるために帯という形式を選んだ」との解説があった。豊前小倉藩に江戸初期から伝わる小倉織を利用した。作品は撮れなかったので、筑城が監修したみやげものの商品写真を撮ってみた。
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会場出口のガラス・ドアに白いペンキで「さらば。」という文字があり、パンフの表紙にも「20 さらば」と赤文字で書かれている。学芸員でもいろんな事情で金沢に転勤できない人もいると思う。その悔しさが滲み出たキャッチだ。「日本の宝」が東京では見られなくなるので、観客にとっても大変残念なことだ。所蔵作品の3割、800点程度が東京に残るということだが、今後どのように見学できるのか、気にかかる。

工芸館の行き先だが、石川県は人間国宝(工芸技術保持者)が人口100万人当たり全国1位日本伝統工芸展入選者数も人口100万人当たり全国1位とのことだし、金沢美術工芸大学もあるので納得だ。また県立美術館や県立能楽堂、県立歴史博物館の近くという点はよい。しかし旧第九師団司令部金沢偕行社という陸軍の関係建築物(ただし国登録有形文化財)というのはどんなものか。現在の建物も近衛師団司令部だが、軍隊と美術は戦争画を描いた従軍画家をはじめ意外に近い存在なのかもしれない。

以下、2020年2月20日時点(3月に閉館予定)
住所:東京都千代田区北の丸公園1-1
電話:03-5777-8600
開館日:火曜日~日曜日(月曜祝日のときは火曜休館 年末年始は休館)
開館時間:10:00-17:00(入館は16時30分まで 金・土は20時まで開館)
入館料:一般250円、大学生260円、65歳以上と高校生以下は無料

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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