多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

11年たっても原発事故の被害が収束しない 今年の東電抗議行動

2022年03月15日 | 集会報告

今年も3.11の日がやってきた。11回目だ。官邸前金曜行動にはできるだけ月1度行くようにしているが、わたしが東電前に行くのは年に1度、3月11日だけだ。たんぽぽ舎と経産省前テントひろばの東電本店合同抗議は毎月開催され、今回で102回になる。しかし政府の式典は昨年の10回で終了した。まるで事故が収束し復興が完了したかのように。
しかし今も汚染水(政府は処理水と呼ぶ)は毎日140トンも発生し続けているし、2月末で3万8000人がいまも避難生活中だ。

11年前の震災の日も金曜だった。交通機関がストップし、事務所に泊まり込む人も多かった。わたしは翌朝、高校正門前でビラまきをする予定があり、20時ころ事務所を後に歩き始めた。6-7キロ歩いたところで都営地下鉄の運転再開を知り駅に向かった。結局、翌朝の式は延期になった。

東電前に集まった300人の参加者
11年後の東電前「追悼と東電抗議(呼びかけ:経産省前テントひろばたんぽぽ舎 参加300人)は黙とうに続き、いつものように五十嵐努さんの多摩川太鼓から始まった。「今日の行動、怒りをこめて」で始まり「東電はあやまれ!」で締める怒りの和太鼓演奏だ。
主催者あいさつでたんぽぽ舎・柳田真さんは「政府は福島事故を忘れさせたいと思っているのだろう。しかし福島事故はまだ続いている。事故を風化させたくないのでこの東電前行動を続けている。1300万人口の東京で東電への行動はわたしたちと新橋アクションしかやっていない。東電は全然誠実ではない。最近は裁判で「払いすぎている」とまで主張している。東電に反省を迫り、ずっと追及していきたい」と述べた。
以下、集会で聞いた言葉のなかでわたくしに印象が強く残った方のメッセージの一部を紹介する。

●福島の声 鴨下全生(まつき)さん

震災のとき自分は8歳、原発から南へ40キロのいわき市に住み、習い事に行こうと玄関に立っていた。しばらくして大津波がきたという声がした。2011年3.11はぼくにとって始まりの年であり、かたちを変えながら被害は続いている
政府が避難指示を出したのは被災地域のほんの一部だったので、多くの人が情報がないまま被ばくさせられた。わたしたちは、両親がチェルノブイリや海外の情報を調べ、やむをえず東京へ避難した。国も東電も「逃げる必要がないところから逃げている人」という差別的扱いをした。避難住宅に入れたが、早々に打ち切られ住宅を追い出される恐怖を味わった。その追い出しは今も続いている。
ぼくが国と東電に求めるのは反省でも謝罪でもなく、悔い改めることだ。東電は被害から目をそむけて原発を再稼働するのでなく、別の道を探してほしい。ぼくら被害者は、これからも被害の実態を発信し続けていきたい。

311こども甲状腺がん裁判の代理人 北村賢二郎弁護士

原告の若者6人らは人生の可能性そのものを奪われている
原告の一人は、努力すればきっと結果がついてくると考え、ずっと生きてきた。上京し、自分の希望する仕事に自分の力で就いた。しかし甲状腺がんになり体の免疫が落ち、普通の人でも激務なのに、どうしても自分の体がついていかない。それで自分にとって憧れだった仕事を辞めた。
もう一人の原告は公務員になることが目標だった。収入が安定しているとか、休みがとりやすいという理由でなく、甲状腺がんの治療を続けながらも一人で生きていけるだろうという理由だ。自分の進路を考えるとき、自分の健康を最優先に仕事を選ばなければならない
女性の原告は、結婚や出産、育児は自分に関係ないと考えるようになった。甲状腺を摘出すると、妊娠・出産に必要なホルモンをつくることが難しくなる。そうすると自分はそもそも出産できないのではないか、それなら結婚自体もできない。結婚・出産し子どもをもつという、ごく普通の当たり前のことが自分には関係ないと思わなければいけない状況にある。
人生にはたくさんの可能性がある。それを失うことがどれほど悲しいことか、どれだけ苦しいことか、なかなかわからない。甲状腺がんはたいした病気ではない、死ぬほどの病気ではないという人もいるが、原告の被害の実相に触れればそんなことはいえないと思う。
人間のすばらしさは間違いを起こさないことではないし、失敗しないことではない。誤ったら目をそむけない、正面から向き合い誤りを改める。そこに人間のすばらしさがある。
11年前東電は福島第一原発事故という大きな誤りを犯した。福島原発事故から本当の意味で立ち直る、そのためには原発事故で甲状腺がんになった人の被害の実相から目をそむけないきちんと向き合っていくことが本当の復興になると、われわれは考えている。

わかりにくいが、中央の男性(東電職員)に申し入れ書を読み上げ、手渡した
反原発自治体議員・市民連盟と民間規制委員会・東京から東電・小早川智明社長あて申入れで、被害者への賠償補償を果たすこと、柏崎刈羽原発の廃炉と東電が支援する東海第二原発を廃炉にすることを求めた。
その東海第二原発廃炉を目ざし、地元茨城で市民運動をしている方から、昨年3月東海第二原発差止訴訟に勝訴したが判決は広域避難計画がしっかりしていないことは人格権の侵害というものだった。それで、日本原電だけでなく、こちら側も原発そのものが危険だということで双方控訴している、ただ控訴審の日程は決まっていないとの報告があった。合わせて、高木仁三郎氏が2000年に亡くなる前に「99年のJCO事故で人が死んだのだから、原発はなくなる」と希望をもって語っていたことや沢地久恵さんの「1人でも始める」が原点、市民運動で、民主主義で止めるとのアピールがあった。
また柏崎刈羽原発の地元の方から、地震の2週間後、柏崎原発がこんなことになれば全部だめになる、それで現地を見に行こうと今中哲二さんたちと飯館を訪れた。南のほうに行くと持参した線量計が振り切れた。それなのになんの情報提供もないので、マスクもせず普通の生活をし、子どもがふつうに遊んでいた。ちゃんと準備していれば避難できるかもしれないが、柏崎近辺の村では昨年降雪量が3mもあり、車の渋滞や一方通行で避難はたいへんだ。原発に断固反対していかなくてはいけない、とアピールした。

最後の閉会あいさつで、経産省前テントひろばの三上治さんは「時間がたてば、なるようにしかならないという日本人の考え方が広がる。そのなかで、ぼくらの自覚と意志をはっきりすれば新しい局面をひらいて行けるという意味で、頑張りどころがこれからやってくるんだろうなという意味で、11年目を迎えたい。この闘いを継続しながらやっていきたい」と述べた。
ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、自公政権は原発早期再稼働を言い始めたり、プーチンが核攻撃を示唆したり、なにより原発基地が攻撃目標に入っている現実など、悪夢のような「原発と戦争の問題」がいま注目されている。また1年後に汚染水を海洋放出しそうな東電、危険な老朽・東海第二原発再稼働問題、被ばくし甲状腺がんを発症した若者はまだまだ増えるかもしれないこと、問題はこれからも山積する。その一方で、歳月とともにたしかに原発事故は世間で「風化」していく。そうした状況で三上さんのあいさつは、含蓄に富む言葉だった。

なおUPLANでこの日の1時間半弱の集会全体の動画をみられる(このサイト)。

3月15日東京高裁前にて
☆この集会でチラシを受け取り3月15日の福島原発被害東京訴訟控訴審の傍聴に行った。
わたしは15分ほど早くいったので入場できたが、数十人に人がロビーにあふれていた。日比谷図書文化館セミナールームで行われた報告集会に1回30分で入替で行うしかないほどの傍聴者の多さだった。
法廷では原告席が15人(原告および代理人弁護士)、被告席が13人(東電と国の担当者および代理人)とこれも大集団だった。
裁判内容は、柳田さんが「東電は最近「払いすぎている」とまで主張している」事態(新・弁済の抗弁)に対する原告からの反論だった。東電側は最高裁判決3つに基づき主張するが、それぞれ場面、前提、根拠が原発賠償とは異なること、特定期間内・費目ごとの賠償なのにそれを合算させるのは不合理であること、世帯ごとの相互充当も個人を無視することになること、さらに東電の論法はすでになりわい訴訟、南相馬訴訟で否定され、仙台高裁でも進行協議で否定されていることなどを指摘したものだった。理論の部分はかなり難しく、わたしには、書面を見ないと十分な理解はできそうになかった。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
 またこの日の報告集会も、UPLANのこのサイトで視聴できます。


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