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田中正敬が語る「関東大震災朝鮮人虐殺100年」

2023年08月28日 | 集会報告

今年9月1日は関東大震災、そして朝鮮人中国人虐殺から100年の日にあたる。
8月13日(日)午後、月島社会教育会館で開催された「平和をねがう中央区民の戦争展」で、田中正敬さん(専修大学)の「関東大震災朝鮮人中国人虐殺事件から100年」という講演を聞いた。
「震災の混乱のなかでの虐殺」という一般的なイメージと「実態」には大きな違いがあること、そのギャップの陰には日本政府のこの事件に対する向き合い方に原因があること、さらに100年後の現在の課題がわかる講演だった。
虐殺に関する具体的な証言や資料も多く示されたが70分の講演時間では説明しきれず、いくつかの論点は講演後の「質問」のなかで話された。

関東大震災朝鮮人中国人虐殺事件から100年――いま、何を考えるべきか

                     田中正敬さん(専修大学文学部教授)
今日は「平和をねがう中央区民の戦争展」なのに、なぜ関東大震災時の虐殺を扱うか、わたしが考えていることをお話しする。
戦争の被害は、当然のことながら植民地にあった人にも及ぶ。それは徴用、強制連行、従軍慰安婦の存在に象徴される性奴隷制の問題など、植民地の過酷さや朝鮮人の被害がよくいわれる。だが朝鮮が日本の植民地になったのは1910年なので、戦時期の話だけにされてしまうと植民地期、あるいはそれ以前からの朝鮮人の被害が埋もれてしまう。この問題は植民地支配を受けた側からするともっと長い視野でとらえられないといけないと考える。
そうすると、この関東大震災の朝鮮人虐殺の問題も同じ一連の被害の問題、あるいは植民地支配そのものの性格の問題に関わると考えないといけないと思う。そういう意味でこの戦争展と1923年以前の問題とは、朝鮮史の視点からすればつながっていることを強調しておきたい。
2番目に、関東大震災を通じて100年後のいま何を考えるべきか。
一般的に考えられている関東大震災のイメージと実態とはかなり違う。たとえばいま皆さんがいる月島でも朝鮮人虐殺が起きている。兵隊が朝鮮人を殺したと、公的資料に掲載されている。証言もある。そういう実態がほとんど知られていない。
実態がほとんど知られていないのはなぜか、いままで調査していないから、あるいは調査したことを公表していないからだろうと思う。それをやらなければいけなかったのはだれか、日本政府だと思う。当時の朝鮮人は自らの意思には関係なく、一律に日本国籍を賦与されてしまった。自らの国家が国民の被害を隠蔽するなど、あってはいけないはずだ。
中国人の場合、当時の北京政府が12月に日本に政府調査団を送り調べ上げ、そして日本に帰国した人から証言を聞いたり、遺族から証言を得たりして詳細な名簿をつくる。そこには、名前、出身地、どこでどのように殺されたか(鉈か銃か)などいろんな事例が出てくる。朝鮮人はそれがほとんどない。
この問題について先駆的、体系的な研究をした姜徳相さんがいつもおっしゃったのは「朝鮮人は、国がないからこういうことになる」ということだった。自分の被害を訴えるべき国が何もしないということだ。そういうことが、この問題を不明なままにしている。
「6661人」という言い方がある。これについて「いい加減だ」「盛っている」と批判する人がいる。この調査をしたのは当時東京にいた朝鮮人留学生たちだ。たしかに6661人なのか、それ以上か以下かということを裏付ける資料がないことは事実だ。しかし「いい加減だ」「盛った」ということを裏付ける資料もない
それを明らかにすべきだったのは朝鮮人留学生ではない。日本政府だとわたしは考える。「わからない」ということが問題なのだ。なぜわからなくなるのか、調べればわかるはずだ。それをしなかったのはいったいだれか。ちゃんと問題にしないといけないと思っている。
その流言が事実だったと言ってのける人がいる。でも流言のとおり集団的暴行を働き、あるいは爆弾を投げて放火しつかまった朝鮮人は一人もいない裁判にもかかっていない。しかし「当時の新聞に書いてある」と言い張る。新聞記事が正しいかどうか検証しないといけない。
実態がどうだったかということをきちんと踏まえる。「ツマミ食い」されないようにするには、事実が大切だ。実態を知るためには、相当な調査が必要だ。
ヘイトスピーチはいつでも横行する。だからいま何を考えるべきか。実態をちゃんと踏まえ、そして基本的には人権の問題だということを認識し、それに基づいてきちんと組み立て判断することが一番大事なことだ。要するに人権感覚の欠如にほかならないと私は思っている。それが民族差別、排外主義に結びついていく

1 朝鮮人虐殺の原因
(1)背景 
背景として、日本の植民地支配、そして独立運動をする人がいた。独立運動を弾圧する側にとっては「不逞朝鮮人」ということになり警戒し、民衆意識もそれに巻き込まれていく、と一般に説明される。
震災直前にも、朝鮮人虐殺事件があった。ダム建設労働者を虐殺してしまった事件だ。
震災後すぐ、9月1日午後には流言が始まった。朝鮮人社会主義者が火をつけているという流言は警視庁の資料にも出てくる。
これに対し政府は9月1日13時10分東京衛戍司令官代理が第一師団と近衛師団に「非常警備に関する命令」を出し、14時警視総監が軍隊に出兵を要請、同時に水野錬太郎内務大臣に戒厳令を出すよう建言、その結果2日午前に東京市およびその周辺、3日に東京府・神奈川県、4日に千葉・埼玉県へと拡大していった。戒厳令を出した理由は、じつはわからないところはあるが、実態としては戒厳令が出たところで事件が起こった
警戒の動きが広がるなかで何が起こったか。全国に無電が発信される。後藤警保局長が船橋の海軍無線送信所を通じて呉鎮守府に「朝鮮人ハ各地に放火シ・・・東京市内に於テ石油ヲ注キテ放火セルモノアリ・・・。戒厳令を施行シタルガ故ニ・・・鮮人ノ行動ニ対シテハ取締ヲ加ヘラレタシ」と打電し、全国の都道府県に流された。
同時に内務省から近隣の県に通牒があり、「不逞鮮人暴動に関する件」という題名で「この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ・・・」を県下に移牒し各地に自警団が組織された。
4日早朝さいたま市見沼区で自警団が朝鮮人を殺す事件が起こり、その後、中山道沿いの熊谷、本庄、神保原で事件が起こった。群馬県では9月5日、軍の殺害事件では9日ころ事件が起こった。

2 虐殺の実態
(1)東京
「関東大震災の混乱のなかで」と書かれると、災害が起こった中枢部で火災が起こり人々が混乱し、ウワサを信じた人たちが殺害事件を起こしたというイメージを浮かべるだろう。だが群馬県のどこにそういう被害があるか。千葉の船橋から無線を発信したのは、あまり被害を受けていない地域だったからだ。
そんなに被害を受けていない地域で大きな虐殺事件が起きたことは「あの混乱の中で」という言い方では説明できないし、また発生は9月1日や2日ではない。
西崎雅夫関東大震災朝鮮人虐殺の記録――東京地区別1100の証言(現代書館 2016)という書物がある。東京での朝鮮人虐殺・虐待に関する証言をまとめ、発生場所を地図にプロットしている。墨田・江東など下町が非常に多い。しかし千代田・中央なども結構ある。新宿・文京・品川・港・世田谷でも起こっていることがわかる。
さらに9月1日から16日(大杉栄らを虐殺した甘粕事件の日)まで大震災関連の事件が起こっている。12日には王希天という中国人労働者が殺された。震災から10日もたってこういう事件が起きた。こんなに時間が経ってから事件が起こったことをどう説明するか。
虐殺について証言を拾うと、住民等による虐殺として旧四ツ木橋での虐殺では20-30人殺された。軍隊の中隊長の証言として、「朝鮮人が暴動やっているから征伐せにゃならん」と戦争気分になっている。そういう意識でいる。
司法省や戒厳司令部の調査でもたくさんの事例が出てくる。ちなみに月島の事件は、9月1日夜中に出てくる(関東戒厳司令部詳報第三巻)。 
(2)地方での事例
9月4日以降事件が多発する。前述の大宮、熊谷などで自警団に殺害された。千葉県北西部の習志野には軍隊が駐屯していた。建前は中国人朝鮮人「保護」のため軍のなかに収容所が設置され、所内で動向を調査し、疑念をもたれた人は連れ出され殺された。同時に周辺の村に「朝鮮人を取りにこい」といい朝鮮人を下げ渡し、殺させた。これは村人の日記に出てくる。
混乱させたのは誰か、考える必要がある。誰かが指令を出し、誰かが関わり、一番大事なのはそれにより傷ついた人がいることだ。「混乱の中で殺されました」という記述は、全部薄めてしまうように思えてならない。
「混乱の中で」と誰が言い出したのか。水野錬太郎(内務大臣)は機関紙(自警 1923年11月号)に「流言飛語に対し一々その出所を突き止めて之が真偽を確かめんとするは当時の実際において不可能の事である」と書いた。嘘だ。内務省自身があちこちに流言を流しているのだから
戒厳下の軍隊と各方面主任者、事務局警備部が集まり「虐殺事件」の収め方の取り決めをし「朝鮮人ノ暴行(略)事例ハ多少アリタルモ(略)皆極メテ平穏順良ナリ」「皆混乱の際ニ生シタルモノニシテ鮮人ニ対シ故(ことさ)ラニ大ナル迫害ヲ加ヘタル事実ナシ」という結論に持っていこうと、協定を結んだ。

同じ会場で開催された展示より(資料 日朝協会)
3 関東大震災における虐殺否定論
(1)現状:安倍政権から現在まで
いま政府はどうしているか、一貫して朝鮮人虐殺・中国人虐殺に関与したことを認めない。今年5月23日の参議院内閣委員会で杉尾秀哉議員(立憲民主)が国会質問した。
講演のなかで、杉尾議員の質問と政府答弁が16分ほど放映された。田中さんは「さすが元TBSニュースキャスター」と評しておられたが、迫力ある質疑だったこのサイトの2023年5月23日内閣委員会32分から48分で視聴できる。議事録はこのサイトの5ページ2段から7ページ1段)

「政府といたしまして調査した限りでは、政府内に事実関係を把握することができる記録が見当たらなかったことから、仮に御指摘の資料を確認しても、その内容を評価することは困難であるというふうに考えているところでございまして」と楠芳伸・警察庁長官官房長が答えた(議事録6p2段)。「いや、見当たらなかったんじゃなくて、あるんですって言っています。国会図書館の「斎藤記念文書」にちゃんと見出しがあり当時の記録のコピーがまとめられている」と迫った。さらに中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(2008年3月)に関東戒厳司令部詳報、震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書などを根拠(2008年3月)に記載されていることを内閣府大臣官房・上村昇審議官も認めた。
しかし、谷公一・国家公安委員会委員長、楠官房長らは同じ答えを繰り返すばかり、「さらなる調査は考えていない」(谷委員長 議事録6p4段)とまで答えた。
田中さんからいくつかコメントがあった。
杉尾議員はていねいに「調査していないんじゃないか」と言っていたが、そうではなく政府は「調査したくない」、だから出さないということだと思う。
それにもかかわらず「調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらない」、これは政府の常套手段だ。
また「一般論として申し上げると、過去の大災害時における流言飛語などへの対応については、我々は歴史から謙虚に学び、安全、安心の確保につなげていく必要がある」(議事録6p4段)と言う。これも常套手段のひとつだ。なぜ一般論というのか、関東大震災のときにどうだったかという話をしたくないからだ。
この回答は、2015-2022年の8本の質問主意書への回答とまったく同じだ。
中央防災会議の報告書に対しては、有識者がまとめたもので政府は関知しないと答えているが、あまりにも不誠実ではないか。ちなみに中央防災会議の会長は内閣総理大臣だ。
(2)追随する地方自治体

国がこういう態度をとると、あちこちでそれに追随することが出てくる。たとえば歴史教育の場で、2013年、東京都教委は高校の副読本の朝鮮人犠牲者追悼碑の記述を、監修者にも無断で「数多くの朝鮮人が虐殺されたことを悼み」を「朝鮮人が尊い生命を奪われました」と、何が命を奪ったかわからぬように改変した。横浜市教委でも2016年に「虐殺」の記述が消えた
2022年には、「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」との発言を問題にしドキュメンタリー映画の上映を禁止した。やったのは人権部だ。

おわりに
こういう動きは、事実を見失わせる。同時に、実際にそういう被害を受けたということをきちんと調査したり、事実を認定して謝罪したり、ということがもう行われなくなってしまう
100年ということを問題にする場合に考えないといけないのは、はたして110年はあるかということだ。そういうことからすれば、これが最後の機会だとどうしても考えざるをえない。だからいまできることをしなければならない。それがいまわたしが考えていることだ。

休憩をはさみ30分弱、会場からの質疑応答があった。5人の方から質問や意見表明があった。そのなかから講演の捕捉になることを2点紹介する。
工藤美代子関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』を徹底的に論駁すべきだとの意見に対し、「工藤さんのやり方は、資料の一部を切り取ったり統計の操作、たとえば一番死傷者が多い両国付近の統計を取り出して、それを全地域に適用してこれだけ実際に被災して亡くなった人がいるから、朝鮮人の数から6000人はありえないなどという方法だ。個々の論点批判は加藤直樹氏のネット版「九月、東京の路上で」に詳しい」とのコメントがあった。
またこの日は中国人虐殺に触れる時間がなかったが、6月15日福島みずほ議員の参議院法務委員会での質疑(このサイトの87-113)を見てほしいを、とのことだった。

展示 ミサイル要塞化進む沖縄・南西諸島
中央区民の戦争展は足かけ22年に及ぶ。今年は、田中さんの講演以外に布施祐仁さん(ジャーナリスト)の「大軍拡は戦争のリスクを高めるだけ――戦争より平和の準備を」、「島がミサイル基地になるのか 若きハルサーたちの唄(湯本雅典監督)、「葫蘆島(ころとう)大遣返(国弘威雄監督)などの映画上映、「関東大震災中国人虐殺事件の実相」「ミサイル要塞化進む沖縄・南西諸島」「これが教科書検定の実態!――教科書会社への圧力、子どもには価値観の押しつけ」などの展示があった。とりわけ「広島基町高校の生徒と被爆者が共同で描いた『原爆の絵』」は、リアルで観客を集めた。作品は撮影禁止だったが、広島平和記念資料館のこのサイトでいくつか見ることができる。


展示 これが教科書検定の実態!――教科書会社への圧力、子どもには価値観の押しつけ(資料 子どもと教科書全国ネット21)

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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