多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

森達也の「メディアが煽る不安と恐怖」

2008年07月01日 | 集会報告
新党日本有田芳生氏が主催する第4回「有田塾」で、森達也氏(作家・映画監督)の「視点をずらす思考術」という講演を聞いた。森さんはこの日の早朝まで「朝まで生テレビ!」の裁判員制度に出演し寝不足気味とのことだったが、メディアが煽る不安、メディアが純度を上げた善悪の水準、群れて暴走を始める人間、大義をもつことで人間は初めて大量殺戮ができること、などグロテスクな世界を活写するお話の内容は濃密だった。最後はメディアに接するときには視点をずらそうとの提案をされた。

最近、北千住駅の構内で警官から「ナップザックの中をみせてください」と声をかけられた。職務質問だとピンときたので「任意ですか、強制ですか」と聞くと「任意です」というので「ではイヤです」と答えた。「任意です」「イヤです」を4-5回繰り返すと「やましいことがあるのですか」にエスカレートし、最後には「交番に行きましょう」になった。最終的には警官の写真を撮ることを条件にみせることにした。何を探していたかというとカッターナイフで「サミット前の特別警戒」だという。
2年くらい前、空港で2個もっていたライターの1つを没収された。1個はタバコ用なのでいいというので「変ですね」と押し問答になったが、担当者も小声で「わたしも変だと思う」と答えた。駅の監視カメラには、露骨に「監視中」と書いてある。「特別警戒実施中」という紙が貼ってあることもあるが1年近く同じ紙で、「特別」が恒常的になってしまっている。
こうなった原点は13年前のオウム事件にある。1995年のオウム事件の翌年、わたくしは、残っていた信者のドキュメンタリーを共同テレビジョンで制作することになった。撮影をはじめてまもなく上層部から企画中止命令が出、自力で取材を続けているとクビになった。
その当時わたしにはなぜ中止命令が出たのかわからなかった。その後、独力で完成させた荒木広報部長を中心にした映画「A」の感想には「オウムの信者があんなに普通の人とは思わなかった」というものが多かった。普通どころか、より純粋だったり善良な人が多い。しかしそういう映像はテレビでは使えない。テレビで使えるのは凶暴なイメージか洗脳のイメージだけである。じつは視聴者にはオウムは凶悪な集団、あるいは洗脳された集団であってほしい、自分とは違う存在であってほしいという思いがある。善良なオウムの映像を使えばすぐに視聴者から抗議が殺到し、スポンサーからクレームがつく。メジャーな局はその流れに逆らうわけにはいかない。
なぜオウムが社会を変えたかというと、地下鉄サリン事件は動機のわからない犯罪だったからだ。裁判では「上九一色村への強制捜索がありそうだから」ということになっている。しかしそんな理由は、「万引きがみつかりそうなので刺した」と言っているのと変わらない。
          
人は理由がわからないと安心できない。夜道を歩くとき丸腰ではこわくなる。一人で歩くのはこわい、みんなでまとまりたい。せっかく集まったのだから旗をつくろう、歌もつくろうという運びになる
この傾向に拍車をかけたのがメディアだ。メディアはブラウン管を通して善と悪の純度を上げた。そこで二項対立が進む。90-95年の5年と2000-2005年の5年の死刑判決数を比較すると3倍に増えている。厳罰化が進んだのである。悪いやつは許せない。向こう側には濃密な悪がある。悪は排除し、削除したい。それで安心できるかというと逆で、不安はいっそう増す。
では本当にセキュリティは悪化しているのだろうか。
2007年の犯罪統計で殺人認知件数は1199件でなんと戦後最低だった。最高は1954年の3088件、54年と言うと「あのころはほのぼのしていた」といわれる「三丁目の夕日」の時代である。その後の人口増を勘案すると殺人は1/4になった。しかしマスコミも警察もPRしない。ニューヨークの犯罪件数が1/4に減少したとき市や警察は積極的に広報した。
治安が悪いと思っていてくれたほうがよい面もあるからだ。恐怖や不満があると、集団がまとまりやすい。人々は「危ない」「こわい」にテレビのチャンネルを合わせる。テレビ局は視聴率を稼ぐ必要があるので「市場原理主義」に忠実に従い不安をあおる。
長く海外でマスメディアの仕事に従事している友人が一時帰国したとき、日本のニュースをみて不思議に思うことが3つあると言っていた。
まずテロップやモザイクが多いこと。そしてニュースなのにラーメンや回転寿司のランキングをやっていること、最後に事件報道、それも殺人事件ばかりで、政治のニュースが少ないことだ。普通の人はよほど治安が悪いのかと考える。殺人のニュースは不安と恐怖をあおる。
人間は動物と同じように群れる。動物のなかで食物連鎖の頂上にいるライオンやワシだけは群れない。動物は天敵が現れると同調して逃げる。脊髄反射のように何も意識せず、いっしょに暴走を始める。人間は食物連鎖の頂上に立ったが、不安と恐怖は残っている。天敵の代わりを探し、違う肌や違う神をもつ人びとを仮想敵にする。
しかし進化すると異文化コミュニケーションにより、交易を始めることもあった。ところがオウムや9.11でいっきょに先祖返りした。かつてもこういう現象はみられたが、現代ではメディアが恐怖を増幅し、みんなが暴走する。
お化け屋敷でこわいのはお化けではなく、暗くて相手が見えない通路だ。敵がみえないので可視化しようとする。それが北朝鮮や中国であり、オウムや2003年のワイドショーで取り上げられたパナウェーブ研究所の白装束集団だった。
自分で鋳型をつくり、それに当てはめて仮想敵をつくる。目の前に敵が現れると恐怖にかられ「やられる前にやれ」というステージに進み、さらに「愛するものを守るために」という大義を掲げると、戦争に突入する。たいていの戦争は「自衛」戦争である。正義や大義をもつと、人は大量殺人を実行できる。たとえばブッシュの理屈がそうだ。アメリカは平和をつくるためと称して他国をたたく。やさしいから殺す。善は摩擦を生じることがない。平和な状態になると次の敵をみつける。「善意」のこわさを知るよいチャンスである。
          
メディアが映すのは、多面的な現実の一つの見方に過ぎないことを意識すべきだ。またメディアはより刺激的な情報を、よりわかりやすく伝える傾向がある。「わかりやすく」という点にも問題がある。メディアはまるで小数点以下を四捨五入するように現実を単純化する。切り上げるときは不足している現実を演出により補い、切り下げるときには現実の一部分を恣意的に消してしまう。複雑な世界を電車の「中吊り広告」のように単純化するのがメディアだ。こういうことを知るのがメディア・リテラシーだ。映像のウソを見抜けというが、わたしでも映像だけみてウソを見抜くことなどできない。「視点をずらして」テレビを見るようにしてほしい。
殺人認知件数のデータのように、いろいろ比較するとわかってくる。
2年前にモンゴルのウランバートルを訪れた。そのときのガイドは初恋の人にそっくりの女性だった。マーケットを見学したとき、彼女が突然振り返りわたしの手を握った。思わず舞い上がり、「このまま2人で海辺にでも逃げて暮らそうか」などと妄想が頭の中をかけめぐった。ところが彼女は「これはカスタム(習慣)です」という。じつはわたくしが彼女のかかとを踏んづけたのだった。砂漠の多いモンゴルでウランバートルは異常に人口密度が高い。肩が触れたり足を踏んだだけでけんかや殺人に発展することもある。そこでそんなときにはまず相手の手を握り友好的な態度を示すことが「暮らしの知恵」になったのだった。
こんなささいなことから世の中が変わるかもしれない。

☆講演のあと、有田さんとの対談、参加者との質疑応答が行われた。
有田さんは昨年7月の参議院選を機に「ザ・ワイド」のコメンテーターから週3回の辻立ちへ、活動の場を移した。最近行った街頭演説で「私達若者を助けて下さい」というメモ用紙を手渡されお守り代わりにしたり、中島みゆきの「永久欠番」の話をしたところその人の心に共振したのか泣き出してしまったスーツ姿の高齢者がいたとのエピソードを紹介した。こういう一人一人との交流から「人間がいる」という実感を感じる、人のために生きる10年を送りたいと抱負を語った。
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