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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

高麗博物館で学ぶコリアと日本の交流

2008年06月27日 | 博物館など
大久保の高麗博物館を訪れた。駅の南の職安通りには韓国料理店や食材を売っている店がたくさん並んでいる。この博物館は1,2階に韓流スターショップが入っているビルの7階にある。
「市民がつくる日本・コリア交流の歴史館」がこの博物館のキャッチフレーズである。相互の歴史・文化を学び理解して友好を深めること、歴史の事実を直視して、日本とコリアの和解を目指すこと、在日韓国朝鮮人の固有の歴史と文化を伝え、民族差別のない共生社会の実現を目指すことの3つの目標を掲げている。1990年から構想を進め、2001年12月に開館した。

会場の大部分は企画展「文禄・慶長の役と日・朝の陶磁」に充てられていた。
1592年の文禄の役、1597年の慶長の役で、豊臣軍は多くの朝鮮の陶工を日本に連行した。このころ日本では侘び茶高麗茶碗が武士の間で流行していたからである。白土で化粧し透明釉をかけた粉青沙器を朝鮮でつくっていた陶工たちは、九州・山口に分散し、唐津焼、萩焼、薩摩焼を作陶した。薩摩では島津氏が連行した陶工のうち40人あまりが苗代川周辺に定住し薩摩焼をつくった。初代は沈当吉、現在は15代沈壽官が襲名している。
また有田では、陶石を発見し1610年日本最初の磁器である有田焼が誕生した。主導したのは李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)だった。有田焼は17世紀後半オランダ東インド会社によりヨーロッパに輸出され、これに魅せられたアウグスト2世がつくらせたのがマイセンである。
文禄・慶長の役という侵略から生まれたものだが、これも日朝の文化交流の一側面である。

てっきり日韓併合以降の問題、あるいは明治以来の朝鮮への日本の帝国主義的進出をテーマにした博物館かと思い込んでいたので、少し意外だった。しかし考えてみると、歴史の授業で学んだように、陶磁器に限らず、漢字も織物も仏教も、大陸文化は朝鮮半島を経由して日本に届いた。
この博物館の常設展は紀元前600年の稲作伝来による弥生文化から説明を起こしている。その後漢氏や秦氏が渡来しヤマト国家で文筆、財務、土木技術を担った。帰化人は明治のお雇い外国人のようなものだったのだろうか。
企画展でみた文禄慶長の役の後、1607年江戸幕府は国交を回復させ3600人の捕虜を3回に分けて送還した。そして朝鮮通信使の制度が始まった。この制度は1811年に終了したがその後も対馬藩は銀や生糸の貿易を続けた。釜山に倭館を置いたが10万坪の敷地、500人の人がいたという。隣国なので当然だが、文化や貿易、外交は古くからあったわけである。

明治に入り、先に近代化をスタートさせた日本は富国強兵と脱亜論により朝鮮半島の植民地化に邁進する。
明治維新からわずか7年後に江華島事件を起こし、翌年日朝修好条規をむりやり結ばせ、日清戦争の翌年にはロシア寄りの閔妃を殺害した。日露戦争に勝利した日本は朝鮮を保護国化し朝鮮統監府を設置する。そして1910年には日韓併合で植民地化を完成する。
朝鮮の人びとも黙ってなすがままになっていたわけではない。1896年には初期義民戦争、1909年には初代統監の伊藤博文を暗殺、1919年には3・1独立運動、1929年には光州学生事件と、波状的に反日運動が起こった。こういう歴史がパネルにして展示されている。
最後のパネルは「韓国、朝鮮と日本、在日、世界との関連年表」という1945年から2005年の年表だった。わたくしがとくに関心を抱いたのは「在日」の部分だった。映画「キューポラのある街」で見た1959年の北朝鮮への第一次帰国船のように、知っている事項も少しあった。しかしほとんどのことは知らない事項だった。
戦時中には皇民化政策や内鮮一体で「日本人」として教育し、徴兵や徴用していた朝鮮人を1947年の外国人登録令で在日の人を「外国人とみなす」ことにし、在日コリアンが誕生した(その後1951年に日本国籍を喪失させた)。1948年には朝鮮学校に「閉鎖令」が発令され阪神教育闘争が起こり、50年大村収容所設置、55年4月外国人登録法による指紋押捺制度がスタートした。一方、70年12月には日立就職差別裁判の提訴、80年外国人の公営・公団住宅への入居認定、2002年滋賀県米原町がはじめて永住外国人に投票権を認定し、徐々に権利が拡大していった。しかし北朝鮮の拉致事件発覚やテポドン発射により、2000年代にはネット上での北朝鮮たたきは露骨になり、並行してふたたび在日コリアン子弟へのいやがらせが増加するようになった。
わたしも拉致はとんでもない話で一日も早く被害者が帰国できることを願っている。しかしその問題と、生まれてからずっと日本で暮らす3世や4世にいやがらせをするのはまったくの筋違いである。

また、常設展示のコーナーにはカヤグムなど民族楽器、色鮮やかなチマ・チョゴリ、靴が展示されており体感できるようになっている。韓流ブーム以降、食文化中心にだいぶ日本に浸透してきたように思う。
なお「交流の歴史」というからには、日本が受容したものだけでなく、韓国が日本から受容したものも少し展示してあるとよいと思った。展示のなかでハングルの教科書をつくった雨森芳洲や陶磁器の研究をした浅川巧は紹介されていた。今後、たとえば棟方志功と崔永林、村山知義と金史良、石井漠と崔承喜などの展示を要望したい。

住所:東京都新宿区大久保1-12-1 第二韓国広場ビル7階
電話:03-5272-3510
開館日:水曜日~日曜日
開館時間:12:00~17:00
入館料:大人300円、中高校生150円(特別展は別途)
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