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反権力の「強い思い」を感じた2022多田謡子反権力人権賞受賞発表会

2022年12月23日 | 集会報告

12月17日午後、今年も新御茶ノ水の連合会館で多田謡子反権力人権賞受賞発表会が開催された。34回目に受賞したのは、在日ミャンマー人の生活と権利擁護とミャンマー民主化運動を行う在日ビルマ市民労働組合会長・ミンスイさん、産むこと・産まないことへの国家管理に抗議するSOSHIREN 女( わたし)のからだから、石垣島での軍事基地反対運動を展開するいのちと暮らしを守るオバアーたちの会の3個人・団体だった。
3つの講演はそれぞれ権力に対する強い思いがこもったものだった。ミンスイさんは国軍の独裁に対する人権と平和への思い、SOSHIRENは国家など強いものの弱いもの、劣るものに対する「支配」を拒否した「女(わたし)のからだは女(わたし)のもの」という主張、オバアーたちの会は、防衛省のミサイル基地建設に対し、自然豊かで心豊かに暮らせる石垣島を取り戻したいという思いの強さが、わたしも含め大部屋に参集した聴衆に十分に伝わった。
なお、オバアーたちの会の代表は体調を崩して上京せず、会場と石垣島とのオンライン中継での講演だった。後ろに会のメンバーが座り、現地の雰囲気がわかり、これはこれでよかった。

●国軍に対抗し、人権と平和を!

            ミンスイさん(在日ビルマ市民労働組合会長)
  わたしは1960年生まれ、ネ・ウィン軍事政権の下で育った。海外とシャットダウンされデモクラシーや労働組合のことは知らないままだった。
高校生のとき、国軍がやる教育は本当の教育とは思えなかったので中退した。だから88年の民主化運動のときは、学生でなく一般人だった。デモで3000人もの犠牲者が出た。わたしの目の前で人が銃弾で倒れるのもみた。ミャンマーには人権がなく、自由に意見も述べられないので海外に行こうと思った。
1992年日本にやって来た。6年間不法滞在して働き、人権とはなにか、民主主義とは何か、勉強した。母から一時帰国してほしいと頼まれ、海外にいた兄弟と相談して一時帰国した。ミャンマーはワイロが横行する社会で、警官や公務員などと口論したりもめることも多かった。4年いて、ここは自分に合わないと思い、母を説得しもう一度海外に行くことにした。民主主義を学び、いつの日かミャンマーに戻り、それを生かしたいと思ったからだ。
2002年11月の2度目の日本渡航は密航によるものだった。いまは永住権をとって暮らしている。03年2月神奈川から東京に転居し、仲間と労働組合のことを勉強し、4月の第1回総会で組合の役員になった。04年ころから不法滞在の取調べが厳しくなり、みな難民申請をするようになったが、わたしもその一人だ。
産業別労働組合JAMの助けを借り、労働組合の仕事をしている。JAMの規約もありはじめは労働運動だけだったが、ミャンマーがめちゃくちゃになり、JAMの了解を得て2005年から政治活動も加えた。2010年アウンサンスーチーの自宅軟禁が解けたとき活動が低調になるかと思った。2015年選挙でスーチーは82%の大勝利だったが、2008年憲法で国軍が特権をもっていることはご承知のとおりだ。
2021年2月のクーデター軍政になったがわたしたちは納得していない。国軍を倒さないといけないという思いが、抗議デモや不服従運動(CDM)になった。不服従運動を始めたきっかけは、国軍がコロナのワクチンを全部よこせと病院にまで入ってきたのに対し、医師や看護師が従わなかったことだった。国軍は国民を守る組織のはずなのに、国民に銃を向け殺している。子どもも200人が犠牲になった。
ビルマの国旗の前で。左は初代会長のティンウィンさん
1948年イギリスから独立し、赤地に左上の青地の区画に大きな星を小さな星が囲む国旗がつくられた。その後、小さな星が5つから14に増えた。89年9月軍部クーデター後も基本的には変わらなかったが2010年10月3色旗へ、国名もビルマからミャンマーへ変わった。もともとバーマーと呼んでいたので、言葉自体は変わってもわたしは問題はない。わたしたちは国軍が勝手にや歌を変えたので、受け入れないといっている。 
日本政府は、2020年の総選挙のとき選挙監視団(団長:笹川陽平)を派遣したり投票用紙用の特殊インクを供与した。それなのにいま日本の外務省は国軍と水面下で話をし、手をつないでいる。 
わたしたちは在日ビルマ人だけでなく、全世界の労働者、全世界の人の人権のためいっしょに闘いたい。平和な社会、人権を共有できる社会を、人権と平和、人の命を守るためみなさんといっしょに闘いたい。
ミンスイさんのほか、初代会長・ティンウィンさんから「世界のため、人権のため、平和のためにがんばろう」との短いスピーチがあった。

●女(わたし)のからだは女(わたし)のもの
SOSHIRENのメンバー 左端は多田謡子反権力人権基金の辻恵さん
             SOSHIREN 女( わたし)のからだから
わたしたちの会は、1982年の優生保護法改悪阻止連絡会が前身で、今年結成40年になる。会の紹介を3人のリレートークで行う。
1 82-83年の優生保護法改悪阻止の闘い
1982年3月1日生長の家政治連合(生政連 村上正邦会長)は総会で、憲法改正、優生保護法改正の2大目標早期実現を決議した。生長の家は1930年に創設された新興宗教で、保守政治家を抱き込み、国会に送り込み活動していた。
村上は、優生保護法の許可条件の中から経済的条件を削除すべきと参院予算委員会で質問し、鈴木首相に早期「改正」を約束させたことで、反対運動が始まった。
刑法29章212条堕胎「妊娠中の女子が薬物を用い、又はその他の方法により、堕胎したときは、1年以下の懲役に処する」、妊娠したら女性は産まないといけない。堕胎罪は明治政府が富国強兵のためをつくったもので115年変わっていない。ただ戦後、中絶を許可する法律「優生保護法」ができた。もとは国民優生法で目的の第一は不良な子孫の出生を防止することだ。ただ戦後、人口爆発、食糧難があり、あわてて優生保護法をつくった。14条人工妊娠中絶を行うことができる該当者として4項に「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」とあったが、この「経済的理由」を削除しろというのが生政連、プロライフ派の主張だった。生命尊重キャンペーンを大々的に打ち出し、カソリックのマザー・テレサを招聘し各地で講演会を開催し、地方議会に請願を出し署名を集めた。
8月SOSHIRENが発足し、11月渋谷の山手教会で大きな集会を開催した。41団体1100人が参加した。
82年12月法相が、改悪案上程には国民的コンセンサスが必要と発言した。83年3月上程間近ということで阻止する学生の会が厚生省前でテントを張りリレーハンストに入った。また代々木公園で雨の中、2000人規模の集会とデモも開催した。SOSHIRENだけでなく、多くの女性団体、労組、医師会、看護師会、国会の女性議員も改悪に反対し個人署名、団体署名、地方議会ともに反対が賛成を上回った。そして5月国会の小委員会で法案提出を断念、7月生政連は活動を停止した。ただ、74年に日本を守る会日本を守る国民会議をつくり、97年に日本会議に統合した。日本会議はジェンダーフリー教育バッシングなど女性の基本的人権を認めない活動を続けている。
2 83年以降の活動
1)海外の運動との交流 
84年アムステルダムの「人口政策はいらない」という大会に参加し「リプロダクティブ・フリーダム」という言葉を知った。それまで「中絶の権利」運動だったが、移民や障がい者など産む権利を奪われた人もいるので、わたしたちは「(わたし)のからだは女(わたし)のもの」と訳した。85年には「FINRRAGE(生殖工学・遺伝工学に抵抗するフェミニストネットワーク)設立に参加した。94・95年にカイロ国際人口・開発会議NGOフォーラム、北京女性会議の公聴会やワークショップに参加した。これらは96年の優生保護法から母体保護法への改訂につながった
2)国内の運動との連帯
国内では、優生保護法以外にも、生殖技術、母子保健法改悪、少子化対策基本法、女性手帳などさまざまな問題に、他の団体と連帯して取り組んだ。
また社会的運動では、「女(わたし)のからだから合宿」を85年から1-2泊で始めた。さらに、女の体をめぐる情報発信を地道な活動として続けている。講座、学習会の開催、ニューズレターの発行である。ニューズはほぼ毎月、年に10回ほど、編集長は持ち回でやっている。

3 いま力を入れていること
2021年12月、イギリスのラインファーマ社が、厚生労働省に経口中絶薬アボーションピルを認可申請した。この薬は1988年フランスで認可され、いま世界80ヵ国で利用されWHOも安全で効果的と推奨している。コロナ禍のオンライン診療でも効果がある。
にもかかわらず日本の産科婦人科学会は、海外では100-1000円の薬を、外科的中絶手術と同等の料金設定が望ましいと、10万円程度を主張する。このギャップには何があるのか。
もうひとつ、母体保護法の配偶者同意の問題がある。
DVを受けた沖縄の女性が医院で中絶手術を希望した。医師は配偶者の同意が必要と説明すると、妊娠したのは婚外子(別のパートナーとの子)で、夫とは離婚調停中なので同意書のサインは得られないと説明した。2日後に再受診した女性は1ヵ月前に離婚したと違う説明をし、同意書なしで中絶手術を行った。元夫は、別のパートナーの子の手術なのに医師を業務上堕胎罪で訴えようとした。それがムリだとわかると次は母体保護法違反で訴えたが、一審、二審とも棄却になった。
最高裁へ上告するかどうかはわからないが、配偶者同意要件は、未婚の場合、DVの場合、第三者からの性暴力の場合などさまざまなケースがあり、女性の自己決定権を侵害する。たとえ経口中絶薬が認可されても、配偶者の許可をとらないといけないという理不尽な問題だ。
今年はSOSHIREN結成40年なので、オンラインを含めたイベントを5回行った。たとえば世界中の人に中絶薬の送付と遠隔医療サポートをオンラインで無料で行う団体「Women on Web」の女性スタッフに「日本の女性の声」を聞くというイベントだ。その他、元学生の会メンバーが語る「あの時、いま、これから」、角田由紀子弁護士と考える刑法堕胎罪をなくすためのロードマップ、などを開催した。すべてこのサイトで視聴できる
11月には他団体とともに院内集会で厚労省と行政交渉を行い、配偶者同意に関し白熱した議論を交わした。またHPでさまざまな情報を発信している。

リレートークのアンカーの方は「国家というものは、自分より弱いとか劣っている、小さいとか力がない人間に対しオレたちがお前のことを決めてやると勝手に決める、家庭などずっと小さいところまでその構造がある、と感じる。反権力といったときに同時に考えなければいけないのは、自分もだれかの権力者になっていないかということ、わたし自身も、自分がされてきて口惜しいことをだれかにしていないかいつも考える、わたしはSOSHIRENに加わってまだ10年あまりだが、そのことをSOSHIRENの人から学んだ」と締めくくった。

●緑豊か、心豊かに暮らせる石垣島にミサイル基地はいらない
           山里節子さん(いのちと暮らしを守るオバアーたちの会代表)
2016年防衛省がいきなり石垣に軍事基地をつくるといってきた。基地ありきの考えで、大きな荷物をこんな小さな島にドーンと持ち寄ってきた。どんな理由があろうとも「イヤなものはイヤです」と、その日のうちにオバアーたちの会を立ち上げた。毎週日曜の夕方、島のあちこちで抗議スタンディングをして足かけ7年になる。反自衛隊基地づくりの歴史だ。
国の権力が住民に有無をいわさず押し付けてくる風潮が島では当たり前のように展開されている。メンバー一人ひとりの立場で、いろんな分野で「そういうことはいけないでしょう」という思いで集まったのがオバアーたちの会だ。

「石垣島 1955、56年」という70年近く前の島の風景、くらし、イベントの20分程度の記録映像(無声)が上映された。緑の山、川、マングローブ林、滝などの自然、水牛を使った農耕、ユイマール(助け合い)の茅葺き作業、正月の着物の晴れ姿、朝5時ころから応援歌を歌った郡下運動会などを見た。
上映後、山里さんは次のように語った。  
あの頃はモノやがカネなくても緑豊か、心豊かに暮らせる島だった。そういうものを取り返したいと強く思いながらきたのに、それを打ち砕くのが軍事化の話や陸上自衛隊だ。基地でなく駐屯地といえと言っているそうだが、ミサイルを固定せず車載で島中移動する。住民は逃げるところも隠れるところもない
大きな声でいいたいのは、わたしたちの島には戦争とか戦を表す言葉がない。そう言いたいときに「戦争」や「戦」という言葉を借りて表現している。島の人たちは戦争を知らず連綿と生きてきた。戦争なしで幸せに生きていけることを悠久の昔から示し生きてきたのがわたしたちの先祖だった。それを誇りに思いいつまでも生き続けたいし、次の世代、次の次の世代にも残していきたい。

ロビーで三線のミニコンサートが開かれた
そして安里屋ユンタと、わらべ歌をもじり「米軍が来る、ミサイル基地も来る、わたしたちの島、大変だよ。どうしよう」という歌詞の「よーよーよー」を披露し、最後に多田謡子の理念を世界中に広げていきたいと、一句詠んだ。わたしには詩吟のように聞こえたが、思いが詰まった句であることはよくわかった。
会のメンバー5人から一言ずつメッセージが語られた。本土から島に戻り農業をする人は「基地は問題があり反対、人を殺す武器は石垣島に必要ない」、沖縄から祖父の代に移住してきた人は「いままで基地がなかったので、本島の親戚にいい島に住んでいると誇りをもちこの島を愛して住んできた。ところがミサイル基地ができる。どこに行けばいいんだろう、本土の難民になるしかないなあと思う」と語った。

☆ミンスイさんは、2日後の19日夜、議員会館前総がかり行動でもスピーチした。ビルマの国軍批判だけでなく、日本も専守防衛転換を勝手に決めるようなことでは、独裁と同じで民主主義ではない、と主張した。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
 SOSHIRENの「配偶者同意の問題」については、週刊金曜日2022年12/16号p11岩崎眞美子の記事も参照しています。


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