広島には30年くらい前、一度仕事で行ったことはあるが、今回はじめて平和記念公園を訪れた。ここは東が元安川、西が本川にはさまれた中洲である。1945年8月までは、県庁、市役所(1928年まで)、県立病院、デパート、映画館などがある中心部の繁華街だった。繁華街とは少しジャンルが違うが、大阪の中之島のような場所だったのかもしれない。
この町が1945年8月6日午前8時15分一発の原爆により壊滅した。爆心は中州から元安橋を渡り100mほど先の島病院の上空600m、当時の市の人口35万人(通勤等による入市者含む 推計)のうち4ヵ月内に13-15万人が死亡する惨劇が起こった。爆心地には「この一帯は、約3000-4000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人々が瞬時にその生命を奪われました」との説明板があった。
平和記念資料館には多くの遺品が展示されていた。中学生や女学生の学生服、制服、かばん、体操シャツなどが多かったのは、建物疎開作業に動員されていたからだ。作業に動員された3万8000人のうち9100人、1/4が学徒だった。
また意外に外国人犠牲者も多かったことを知った。朝鮮人・中国人のことは知っていたが、マレーシアなど東南アジアからの留学生、ロシア人商店家族、アメリカ人捕虜も原爆の犠牲になった。
公園内に韓国人原爆犠牲者慰霊碑があり、「2万余人の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない」との説明があった。70年4月10日民団広島県本部が建立した碑なので、おそらく韓国人だけでなく朝鮮人全体を指すと思われるが、2万人とはすごい数だ。日本に残った在日の人には戦後31年の76年に被爆者手帳が交付されたが、帰国した人にはなんの補償もないのはひどいと思う。
この慰霊碑の南東、記念資料館の北東に国立の広島原爆死没者追悼平和祈念館という半地下の施設がある。メインは広い死没者追悼空間だ。原爆死没者の登録はわたしが訪問した時点で2万6000人弱、2002年にオープンした施設なので仕方がないかもしれないが、国の犠牲者に対する姿勢が現れている。ただ水の流れの音や静謐で大きな空間は、たしかにわたしたちに追悼の思いを新たにさせる。ベルリンのユダヤ博物館でもそんな感情を味わったような気がする。もしかすると記憶違いかもしれない。
原爆ドームは爆心地の西100mほどのところにある。映像の印象から、高さ20mくらいある巨大なドームのように想像していたが、思ったより小さかった。4階建てなのでたしかにこんなものだろう。
原民喜の詩碑があり「遠き日の石に刻み砂に影おち 崩れ墜つ天地のまなか一輪の花の幻」と刻まれていた。周囲は囲われ近くには行けない。夜もライトアップされていた。
平和公園の西、本川を隔てたところに本川小学校がある。ここは爆心地に一番近い小学校(爆心から350m)である。時間の関係で校内の平和資料館の見学はできなかったが「焼けはてた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれました」とのプレートがあった。本川小学校は「はだしのゲン」に登場する学校として知られる。わたしは東京大空襲をテーマにした「火の瞳」(早乙女勝元 理論社1964)を読んで戦争はいけないと思い知ったが、もっと若い世代の人には「はだしのゲン」(中沢啓治 週刊少年ジャンプ連載 単行本は汐文社 1975)がきっかけだったとよく聞く。
広島では今年12月「核兵器のない世界」に向けた国際賢人会議が開催され、グテーレス国連事務総長やオバマ元大統領も来日した。来年5月にはG7サミットも開催される。平和記念資料館の出口付近にもサミットの広報ポスターと「核兵器禁止条約の署名・批准の現状」の世界地図が掲示されていた。発効に必要な50国を21年1月に超え現在68カ国に達している。政府は政治決断し、一日も早く条約に署名・批准してほしいと願う。
さて、広島に投下された理由は、都市人口、爆風による損害拡大(たとえば盆地、広島の場合丘陵の存在)、それまでに大きな爆撃を受けていない都市などから、最終的に京都、広島、横浜、小倉の4都市が候補に残り、8月6日未明、気象観測機が広島、小倉、長崎を飛行し好天の報告が入り「エノラ・ゲイ」が広島に向かったと資料館の説明に書かれていた。
その他、広島が日清戦争以来の軍都だったということも一因としてある。わたしは2007年の8.15集会で東琢磨さん(音楽評論家)の講演で初めて被爆地・広島の「軍都」という加害者としての側面を知った。
広島市内の軍用地としては、第五師団司令部、歩兵連隊、砲兵隊、騎兵隊、輜重隊、工兵隊、工兵作業場などがあり、宇品に陸軍船舶司令部が設置され、大陸への兵士や物資の輸送拠点・補給基地になっていたことも大きい。また三菱重工業、日本製鋼所、東洋工業など軍需企業の工場も多く存在した。
いまは軍都というわけではないが中国地方の要として、広島城の東に5棟の合同庁舎があり財務局、国税局、法務局、運輸局、経済産業局など中央官庁の出先がそろっていた。北には裁判所もあり、まるでミニ霞が関だった。もちろん中国四国防衛局も合同庁舎4号館にある。
海軍工廠のあった呉でも同じようなことがいえる。呉は広島から23キロほど南の瀬戸内海べりにある。駅近くの大和ミュージアムで呉の歴史が展示されていた。呉は1889(明治22)年に呉鎮守府、1903(明治36)年に呉海軍工廠が設置され、東洋一の設備、ドイツのクルップと並び世界の二大兵器工場と称された。敗戦後、工廠は播磨造船(その後IHI、現・ジャパン マリンユナイテッド)の工場となった。
呉海軍工廠が設置されたことは知っていたが、航空機部が1941年に独立し海軍第11航空廠になり、九五式陸上攻撃機や飛行艇、特殊兵器をつくっていたことは知らなかった。
ミュージアムには呉で建造した133隻の全艦艇、特殊兵器の写真を掲示していた。特殊兵器とは人間魚雷・回天や特殊潜航艇のことだ。
大和ミュージアムの出口の側の大型資料展示室には、ゼロ戦、特攻兵器「回天」十型(試作型)、特殊潜航艇「海龍」、各種砲弾などが並んでいた。いずれも、本質は人を殺傷する兵器である。やはり不気味さを感じた。
呉では、じつはアニメ映画「この世界の片隅で」(原作・こうの史代 監督・片渕須直 東京テアトル 2016)のすずさん家(がた)を見に行くことがひとつの目的だった。こうの史代さんの祖父母の自宅跡地を2017年に寄贈し呉市が整備したそうだ。相当山の上だったので疲れた。道に迷っていたとき、地元の若いカップルに道案内していただきやっとたどりついた。呉の軍港を見下ろせる場所だったので、こういうのどかな場所で風景をスケッチしていて、憲兵にスパイ行為とみなされ叱られたのだろうと思った。
また山の上でたしかに段々畑もあるが、普通の住宅も多いところだった。もう少し下にある三ツ蔵は呉から広島市街に通じる長ノ木街道沿いにあるので、街道に近い住宅地だったのかもしれない。
街も工廠と足をそろえて拡大、軍需景気で工場や工員が増えるにつれ、映画館や商店街も大きくなり、1943年には人口40万、県下第二の都市になった。戦後も朝鮮戦争時は英連邦朝鮮戦争派遣軍が駐留し陸軍病院もあり、特需もあった。ベトナム戦争では米陸軍第83兵器大隊の弾薬庫があり、呉から配送された。軍とともに成長した町は、その後もずっと軍との縁が切れないのかもしれない。
☆12月16日夕刻、安保関連三文書改訂が閣議決定された。これで政府が「反撃能力」と称する敵基地攻撃能力を日本が保有することになった。アジア太平洋戦争敗戦の教訓、原爆や大空襲の体験から憲法9条・戦争放棄を定めたはずだが、ついに岸田政権は戦後77年にして専守防衛から先制攻撃へと方向転換に踏み出した。アメリカから射程1600キロのトマホークを500発も爆買いしてまで先制攻撃できる体制をつくろうとしている。
16日朝、官邸前緊急行動があり参加した。主催者あいさつで高田健さんの「いま必要なのは、戦争の準備でなく、戦争させない平和の準備だ。今日で終わりでなく、今日が始まりだ」という言葉が強く印象に残った。
また敗戦半年後に設立したふぇみんの方の「7年前の戦争法のとき、『このままでは死ねない』と先輩たちが言っていた。いまわたしがそう思う」とのアピールがあり共感した。広島・呉を訪ね、市民は昔もいまも心から平和を願っていると思った。しかし国が暴走し惨劇と悲劇をつくり出した。そんな後悔をしないよう、憲法の精神を貫くべきである。
また、7年前の集団的自衛権のときと同じく、まず閣議決定だけで勝手に決めてしまった。
ちなみに広島(1区 中・東・南区)選出衆議院議員は岸田文雄、呉(広島5区)は辞任した総務大臣・寺田稔である。ただ岸田は父が広島出身なので選挙区が広島というだけで、生まれも育ちも東京・原宿である。
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