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42年前に構想された辺野古「新基地」

2010年05月24日 | 集会報告
5月21日(金)夜、練馬の豊玉リサイクルセンターで保坂のぶとさん(前・衆議院議員)の学習講演会が開催された(主催:社民党練馬総支部)。講演のメインテーマは辺野古「新基地」問題だった。
鳩山政権は、5月末に辺野古への回帰案で日米共同声明を発表すると報じられている。辺野古は、普天間基地の移設ではない。MV-22オスプレイを配備し、軍艦が着岸できする「新基地」である。新基地を辺野古につくるプランは、なんと42年前の1966年、ベトナム戦争当時からあった。

鳩山首相は、つい先日まで8000本の杭打ち桟橋方式といっていた。それなのに自ら「自然に対する冒涜」と唱えていたV字埋立てに回帰しようとしている。
この問題は普天間移設といわれるが、移設ではない。移設ならいま普天間に配備されているヘリコプターをどこかへ移せばすむ話だ。そうではなく、オスプレイという特殊な飛行機の基地を新たに辺野古に建設したいという話なのだ。
MV-22オスプレイとは、ヘリコプターと同様に垂直に離着陸し、上空でローターを90度回転させ普通のプロペラ機のように高速で飛行するヘリコプターのことである。システムが複雑なので、墜落事故が多発し「未亡人製造機」とも呼ばれる。96年のSACO合意直前に配備が決まったが、住民に危険なことがわかっていたので防衛庁(当時)がアメリカに「明言しないでほしい」と頼み込み「密約」になった。
密約があったことはアメリカでのジュゴン訴訟で、アメリカ国防総省が作成した資料が提出されて07年に発覚した。しかし自民党政権のときは、いくら国会で追及しても「オスプレイがくることはない」とウソをつき続けた。それが民主党政権に代わり、今春、北澤俊美防衛相や長島昭久政務官が「オスプレイが来る」ことを認めた
オスプレイが配備されるこの新基地は、使用期限が40年、耐用期限はなんと200年だ。また、新基地をもうひとつ辺野古にほしいと米海軍が言い始めたのは42年前の1966年のことである。米軍がベトナム戦争を激しく戦っていた時期だった。そして、現在の案とほぼ同じ位置に2本の滑走路を作る設計図までできていた。
なぜ辺野古なのか? まず、大浦湾は水深が深く空母が着岸できる。普天間は町を壊して建設したが、港はない。また普天間は市街地の中にあり弾薬庫は設置できないが、辺野古なら弾薬庫もオスプレイも配備できる。さらに、辺野古から車で1時間ほどの北部訓練場には、世界でただひとつのジャングルゲリラ戦の実戦訓練ができる戦闘訓練センターがある。訓練センターのある東村高江に直径45mのオスプレイ用ヘリパッドを2つ建設しようとしている。
ヘリパッド建設反対のため、住民は県道で座り込み運動を続けている。その頭上を強襲上陸訓練のヘリが飛び、2人一組10人の海兵隊員がマシンガンをかまえてぶら下がっている。危険きわまりない。
また基地のなかに、沖縄県民の水源があり、水源の中でペイント弾や照明弾が1万発以上みつかったそうだ。アメリカ本土ではありえない話だ。沖縄の人は人間扱いされていない
このように、辺野古は、オスプレイの配備、弾薬庫や軍港の建設、ジャングル戦闘訓練センターの存在など、米軍にとり新基地建設候補地として理想的な場所なのである。ではなぜ66年に米軍が基地をつくらなかったのか? カネがなかったからだ。いまは日本が全部カネを出す。アメリカがこだわるわけである。
沖縄では、過去10年のあいだに年間1000件以上「米軍等の事件・事故」が発生した年が4回もある。なかにはタクシー強盗や強姦未遂もある。この件数は日本全国の発生件数の半分以上に上る。
国外・県外への移設を決議した4月25日の県民集会には仲井真弘多知事をはじめ41市町村の全首長が参加した。地元名護では、1月に基地反対の稲嶺進市長が当選した。2月には県議会で自民・公明も含め、普天間基地の早期閉鎖・返還と県内移設反対を求める意見書が全会一致で採択された。ここまではっきり地元は「ノー」と言っている。
それなのに、なにをいっても「抑止力」といって押しつければ、沖縄県民の堪忍袋の緒が切れる。鳩山首相は「最低でも県外、あの海を冒涜するようなことはあってはならない」と言った。そしていま問われると「むやみに埋め立てるのはよくないという意味だった」と弁解する。たぶんアメリカに引きずられ、朝鮮半島有事の影におびえ、脅し外交の圧力を受けているのだろう。
日本の未来は、平和憲法のもとで、信頼と相互協力のアジア、戦争のないアジアをつくれるかどうかにかかっている。わたしたちは、いま、その分水嶺にいる

このあと、市民運動から政治の世界に打って出る森原秀樹さんの講演、練馬区の方から「東京反核平和の火リレー」、沖縄戦を考える学習会、朝鮮学校高校無償化はずし反対の署名運動などのアピールがあった。

☆わたしは辺野古が移設ではなく新基地であることは知っていた。しかし、42年前からの米軍の構想であったことは知らなかった。ネット検索してみると、たしかに「1966年1月17日の海兵隊の辺野古海上基地計画」という記事がみつかった。辺野古のリーフを埋立て3000mの滑走路2本をつくるいまとよく似た計画である。
また2006年4月12日の「報道ステーション」のサイトで、この計画に関与した米海軍担当者へのインタビューを見つけた。「国防長官の承認も得たが、ベトナム戦争の戦費がかさみ議会の承認が得られなかった。(しかしいま復活したということは)われわれのマスタープランが40年たっても有効だということですね」と答えている。
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