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浅野健一の「天皇制とメディア」

2017年01月01日 | 集会報告

12月23日午後、千駄ヶ谷区民会館で反天皇制運動連絡会のシンポジウム「天皇の「象徴的行為」って何だ!?―― 「代替わり」状況のなか で考える」が開催された。浅野健一さんが天皇制とマスコミ報道について話されたので、紹介する。
浅野さんは1948年生まれ、共同通信ジャカルタ支局長などを経て94年から同志社大学教授。85年に「人権と報道・連絡会」(人報連)を設立し、匿名報道主義や報道評議会の設置を提唱している。
わたくしは20年くらい前に人報連のニュース会員になり、年に一度のシンポジウムを聞きにいっているが、今年は残念ながら参加できなかった。テーマは異なるがこの会場で浅野さんの話を聞けることを知り参加した。
浅野さんによれば戦前から連綿と続くメディアの体質、自らの戦争責任を総括しない体質が問題だという。また天皇制について、もっと多様な情報、さまざまな観点からの情報を市民に提供すべきだと主張した。メディアの問題だけでなく「天皇制は、死刑制度、アパルトヘイト、イスラエルのパレスチナ侵攻などと同様に、なくさなければいけない」と天皇制そのものへ向き合うご自身の態度も明確に語った。

天皇「代替わり」状況とキシャクラブメディア
     浅野健一さん(同志社大学大学院教授 地位確認係争中

                    写真提供:反天皇制運動連絡会
●戦前と戦後がつながる新聞社
天皇制については、少年時代からおかしいと思っていた。高校2年のとき天皇が高松を訪れ、学校が「中央通りで旗を振れ」といってきた。拒否した生徒は5、6人だったがその一人だった。
1989年1月、昭和天皇が死去したとき共同通信は「崩御」という言葉を予定稿で使っていた。それを知らせてくれた人がいたのでなんとかやめさせようと社内で運動したが、編集幹部は「みんな使っているから使う」という。さらに「もう時代が変わった」ともいった。しかし沖縄の2紙や長崎新聞など「崩御」を使わない新聞社もじつは5社あった。
97年に「天皇の記者たち―大新聞のアジア侵略(スリーエーネットワーク)という本を書いた。戦時中、大手新聞社は軍隊の侵略と歩調をそろえ、進んで外地に進出し、朝日はジャワ、読売はビルマ、毎日はフィリピンで現地新聞を発行していた。しかし敗戦とともに各社は東京で保管していたこれらの新聞をすべて焼却してしまった。閲覧するには現地の大学や図書館でということになる。自分たちの戦争責任を追及していないのだから、天皇の戦争責任など追及できるわけがない。敗戦で新聞社を退職したむのたけじですら、現地新聞の件は語らなかった。鶴見俊輔がジャワの海軍で軍属として翻訳の仕事をしていたと公表したのは、敗戦後50年もたった98年のことである。新聞社では戦前と戦後が連綿としてつながっている。比較してドイツではナチズムに協力した新聞は廃刊になり、ジャーナリストは永久追放となった。
日本のメディアは、なぜあの戦争を阻止できなかったか、なぜアジアの国を侵略するようになったか、という総括をしていない。
●多様さがない天皇制報道
7月13日NHKは7時のニュースで「天皇のお気持ち」をずっと放送していたので驚いた。あとで考えると7時という時間は、翌日の朝刊の締切まで時間があるので、十分追いかけ記事作成が可能な時間だ。なぜNHKにだけ伝わったのか考えていたが、今日(12月23日)の新聞で、「ここ数年考えてきたことを内閣とも相談しながら表明した」と天皇が記者会見で述べたことを知った。まずNHKでアドバルーンを上げ、次に報道各社に書かせ、そして8月8日のビデオメッセージで国民にというつもりだったのだろう。
わたくしは、基本的には憲法1―8条は削除すべきだと考えている。そうしないと皇室の人権が認められない、宇宙人のような存在のままとなる。また「日本国の象徴」というが、象徴とはたとえば富士山とかテムズ川だろう、人間が象徴というのはありえない
第1条「天皇の地位」は抽象的な概念の説明ではなく、ヒロヒトという具体的な人間のことである。訴追を免れた戦争責任者であり、天皇を残すための象徴天皇なのだから、その歴史的問題を忘れてはいけない。
この機会に「天皇制をやめる」という議論があってもよさそうなのに、天皇制を残すことを前提にして議論している。「この機会に天皇制を考えよう」という議論は出ても、「この機会に天皇制を廃止する」という論議が新聞に載らないことこそ問題だ。
昔ケント・ギルバートが「もし悪い天皇になっても選挙で変えられないのは問題だ」と言っていたことを思い出す。
世界史の流れは王政→立憲君主制→共和制の順である。アジアで共和制になっていないのは、日本、タイ、ネパールなどいくつも残っていない。
イギリスでは王室維持に、国民1人当たり5ポンドかかるというような報道をBBCがしている。この程度のことは新聞で取り上げてよいのに、コストについていっさい書かない。
こいう問題を取り上げる絶好の機会だったのに、退位を憲法との関係ばかりで報道している。
天皇はフィリピンを訪問し「先の戦争で命を落とした」と述べた。しかし「だれが命を落とさせたのか」には触れない。それは一貫している。「慰霊の旅」報道で、戦争責任に触れないのは犯罪的なことだ。
●「代替わり」報道でNHKに新聞協会賞
NHKの橋口和人社会部副部長は「天皇陛下『生前退位』の意向」のスクープで2016年度の新聞協会賞を受賞した。橋口氏はどうやってスクープをとったのか明らかにすべきだろう。
「内閣と相談しながら」については、本来は内閣記者会が安倍に質問すべきだ。多様な情報を市民に提供するのがジャーナリストの使命のはずだ。
協会のホームページには「国内外に与えた衝撃は大きく、皇室制度の歴史的転換点となり得るスクープとして高く評価され」とある。「天皇制を廃止する」というなら歴史的転換点といえるかもしれないが。

NHKは戦争責任をとらない。創立90年というが、放送法により戦後の1950年に成立したのでそれを第二の出発点とすべきだ。共同の場合、戦前の同盟通信が一度解散し、1945年に社団法人共同通信社として設立された。

表参道の日の丸(2013年ころ)
「崩御」の話で思い出した。皇室への敬称は、1950年代正田美智子の婚約のころには、たしか美智子さんと新聞でも表記していたはずだ。いつのまにか雅子さま、紀子さま、になった。
その30年後、1989年1月7日、朝からテレビは異様だった。どのチャンネルも昭和天皇死去の報道番組のみ、しかも民放の生命線であるはずの
CMがどの局でも1本も流れない。いったいいまは何時代なのかと思った。前年秋からの下血騒動、葬式(大喪の礼)までの歌舞音曲やスポーツの「自粛」。天皇制が日常生活に根を張っていることを実感した。
そのうえ死去当日の7日14時半ころには小渕恵三官房長官(当時)が「平成」という新元号をはやばやと発表した。昭和以外の元号にだけは反対したいと思っていたので、口惜しい思いをした(本当は元号はこの機会に廃止させたかった。残念ながら大平内閣時代の1979年6月にすでに元号法が成立していたことをあとで知った)。
その後、丸山昇「報道協定
(第三書館 1992.5)という本を読んで、テレビ局各局でずいぶん前にXデーについて取決めをしていたことを知った。あるテレビ局では、1月7日なんの指示も出ていないのに、若手社員を中心に喪服姿で出勤した社員が多かったと聞いた。30年前からこの国のメディアには天皇制が貫徹していたのだ。
さらに30年近く後、昨年(2016年)10月三笠宮(ヒロヒトの末弟)が亡くなった。朝たまたま聖路加病院の近くを通りかかると、駐車場のあたりがすごい人でテレビ各局のカメラの列があった。映画のロケでもやっているのかと思ったほどだ。警備員に聞くと「もうニュースが流れたから」とだけ答えた。
日本人はよほど皇室が好きなのだろう。しかしわたくしも浅野さんと同じく、皇室制度は廃止すべきだと思う。

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