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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

大正デモクラシーの時代

2011年11月21日 | 博物館など
雨が上がり、暖かく晴れ渡った土曜の午後、憲政記念館で特別展「大正デモクラシー期の政治」をみた。憲政記念館は、国会正門前の緑の多い場所にある。デモで裏側の通用門周辺を歩くことは多くあったが、正門側は社会文化会館から出発した一度だけだ。普通は人の少ない時間だが、観光客が何人か歩いていた。

この展覧会では、大正デモクラシー期を、原敬が首相に就任した1918年から金融恐慌前の1927年の9年間としている。
ハイライトは1924年6月に加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立し、翌25(大正14)年3月の国会で普通選挙法が成立したことである。1916年以降吉野作造は民本主義を提唱し、原は1919年に直接国税10円以上だった選挙権を3円以上に引き下げ有権者はいっきょに300万人となった。しかし普選法成立により直接国税3円以上という選挙権の制限がなくなり有権者は1241万人に増加した。
(以下写真を掲載できるとよいのだが、この記念館は撮影禁止だった)

□パリ講和会議
展示は、パリ講和会議への全権・西園寺公望牧野伸顕の派遣(1919)から始まる。同行13人のなかに主治医・勝沼精蔵の名前をみつけた。原敬は四大政綱を打ち出し高等教育機関の拡張を図った。1919年には松本、新潟、山口など旧制高校がいっきょに4校開校し、大阪、長崎、金沢などの医学校を医大に昇格させた。そのひとつに県立愛知医大がある。静岡出身の勝沼はヨーロッパにいった年の秋か冬、愛知医学校に赴任し、その後官立名古屋医大第一内科教授、新制・名古屋大学総長、国立名古屋病院院長などを歴任した。血液内科、神経内科の研究業績が有名で来日した南京政府の汪兆銘の診察を行った。 

□社会運動の高まり
1919年1月13日日比谷公園で普選を求める大示威行進(デモ)が行われ1万人が集まった。20年5月2日には日本初のメーデーが開催された。大日本電気労組、日本印刷工組合「信友会」、大阪鉄鋼組合などの旗がみえる。その1年後、神戸の川崎・三菱の争議のデモには3万7000人が集まった。先日の反原発デモには10万人が明治公園に集まったが、100年近く前にこの数字なので急激に社会運動・労働運動が盛り上がった時代であることがわかる。
1922年7月には、第一次共産党が地下で発足した。1910年の大逆事件のときたまたま赤旗事件で獄中にいて命びろいした堺利彦らが結成した。23年6月に一斉検挙され堺、荒畑寒村、徳田球一らは禁錮10か月に処せられた。しかしそのため23年9月の関東大震災で、大杉栄のように憲兵に虐殺されずにすんだ。甘粕正彦の供述書には「大杉、堺、吉野作造、福田狂二を殺害する計画だった」とある。
関東大震災の翌日。戒厳令が布告された。陸軍の部隊配置図や憲兵配置要図が展示されていた。八王子や府中は憲兵の牛込隊、それより北は上野隊の担当だった。

□原敬の暗殺
1921年11月東京駅で原が中岡艮一に刺殺されたとき着ていたスーツとワイシャツが展示されていた。ワイシャツはピンクのストライブでいまみてもお洒落なデザインだった。ただし胸の部分にナイフの穴があき血痕がある。
この記念館の通常展では、09年10月伊藤博文を暗殺した安重根が発射した弾丸や60年10月浅沼稲次郎が着用していたスーツが展示されている。刺殺されたとき演台の上で開いていた演説原稿もある。
なぜ弾丸があるのかというと、伊藤だけでなく満鉄理事・田中清次郎もいっしょに狙撃され生きのびたがその体内から摘出されたからだ。
また演説文には「外国の軍隊が25年の長きに亘って駐留するという事は日本の国始まって以来の不自然な出来事で」と書かれていた。400字詰のB4サイズの普通の原稿用紙に、7-8字詰め9行の大きな文字で書かれ、赤いラインが引かれている。このときの論調そのものはウヨクにも共感できるはずなのに、山口二矢の耳には届いたのだろうか。
思えば戦前は、井上日召の「一人一殺」の血盟団事件があったように物騒な時代だった。大規模なテロは2.26や5.15だがそれ以外にも濱口雄幸、山本宣治、団琢磨、安田善次郎など、暗殺された政治家や財界人は多い。

□映画・演劇・週刊誌などの文化 
憲政記念館という名のとおり展示は国会や政治が中心である。しかしわたしが関心があるのは文化の側面なので、あまり多くない文化的な陳列物についつい目が行ってしまう。阪妻(阪東妻三郎)が出演した活動写真「無明地獄」(1926)のポスター、1922年1月に菊池寛らが創刊した「文藝春秋」、4月創刊の週刊誌「サンデー毎日」、「週刊朝日」が展示されていた。週刊誌はいまのB5判より判型が大きい。
24年6月にオープンした築地小劇場の第1回公演のポスターがあった。「白鳥の歌」(チェーホフ)、「海戦」(ゲーリング)、「休みの日」(エミール・マゾ)の3本立てで、わたくしが名前を知っている俳優では、田村秋子、千田是也、友田恭介らが出演した。築地開設のころから千田が出演していたとは驚いた。
村山知義がゲオルグ・カイザーの「朝から夜中まで」の舞台装置を担当して話題になったのは24年12月なのでオープンから半年しかたたないころだった。またほかでも書いたが25年7月に放送局JOAKがラジオ放送を開始した。
映画、ラジオ、週刊誌など次の時代につながるメディアが大正デモクラシーの時期に登場した。

□ビールや百貨店のポスター
アサヒビールやカブトビールの美人ポスターはいろんなところでみる機会がある。ここにはビール、ワイン以外に菊正宗、味の素、日本蓄音機、南満州鉄道のポスターも展示されていた。そして三越、高島屋、白木屋など各デパートのポスターもたくさん展示されていた。この時代は百貨店でなく店名は呉服店だった。ほとんどは和服姿の美人画だが、サクラビールと蜂印香竄葡萄酒は洋装だった。ただ洋装といっても、古代の演劇の衣装のようだった。

☆憲政記念館のある場所は、もとは彦根藩上屋敷があり、桜田門まで500mほどの距離である。明治時代には陸軍省と参謀本部があった。1952年から衆議院が管理し、60年に尾崎記念会館、70年に憲政記念館になった。
尾崎行雄
(1858年12月24日 - 1954年10月6日)は1890年の第1回総選挙で三重県選挙区で当選、以降63年にわたり連続当選し議員を続けた。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
いまは驚くほど広く緑の多い国会前庭(北地区)となっている。眼下の内堀通りや霞ヶ関の官庁街が見渡せながめがよい。皇居周回ランナーの姿をみることができる。
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