今年は、60年安保でデモ隊が国会に突入し樺美智子さんが亡くなった6月15日から50年の節目の年である。6月19日(土)2時から三宅坂の社会文化会館で「60年安保闘争から50年 もうやめよう!日米安保条約――米国・日本・沖縄の新しい関係をめざして」という集会が開催され、夕方、国会へのデモと首相官邸の菅直人首相への要請行動が行われた(主催 2010安保連絡会 集会参加350人、デモ参加260人)。わたしは集会には参加できなかったが、夕方のデモに参加した。
幸い雨は降らなかったものの梅雨特有のとても蒸し暑い日で、午後には光化学スモッグ注意報まで発令された。ときおり吹く涼しい風がとても心地よく感じる夕方だった。
ブルー、ピンク、イエローの3匹のジュゴンとともにデモは三宅坂をスタートした。手に手に「怒」「安保NO!」という赤文字のプラカードをもったデモ隊は坂を上りきり、国会正門前に出た。デモ隊は右の歩道を進んだが、左の歩道を歩く公安が参加者の顔を一人ひとりしつこくビデオ撮影するので、デモ参加者から「公安は顔を撮るな!」と罵声が飛んだ。
正門前で国会に向かいシュプレヒコールを上げた。
「日米安保を廃棄しろ!」
「普天間飛行場を即時返還しろ!」
「辺野古に新しい基地をつくるな!」
「閣議決定を撤回しろ!」
「沖縄の人とともに闘うぞ!」
「米軍基地はいらない!」
「沖縄にも徳之島にも、グァムにも基地はいらない!」
国会の南端を回り込むと南通用門がみえてくる。ここが問題の警官隊との激突の場所だ。ただし60年当時は、いまより少し西側(丸ノ内線出入り口付近)に門があったそうだ。
官邸向かいの、千代田線出入り口の先のいつもの歩道で集会を行った。
発言したのは、地方からの参加者を中心に8人だった。
60年安保のころ中学の教員だったという静岡の方は「大戦後65年たった今、沖縄の人にとって戦争は終わっていない。政府はまだ我慢しろというのですか、菅首相や各大臣はどうお答えになりますか、お聞きしたいと思います」と申入書の一部を読み上げ、「この言葉は菅首相だけでなく、わたし自身や参加者にも向けられている。それならこの行動は期間限定ではなく、継続させていきたい」と訴えた。
その他、札幌、名古屋、広島・呉・岩国での取組の報告と政府への要請のスピーチがあった。
またサイクリングのユニフォーム姿のピースサイクルの方から「ペダルをこいで全国の方に基地の問題を訴えたい」とのアピール、立川自衛隊監視テント村の方から7.17横田行動の呼びかけ、緊急アクションの方から7.4新宿ど真ん中デモの呼びかけが行われた。新宿ど真ん中デモは4月、5月にも実行された。アルタ前をスタートし歌舞伎町を練り歩くもので次回は参議院選挙1週間前の4日(土)14時(デモ出発は15時)に開始する。
最後に反天皇制運動連絡会から「対米交渉を!さもなくば『普天間基地」は皇居へ!」という申し入れについて説明があった。「米軍基地NO!の島ぐるみの声が上がっている。菅首相は閣議決定を撤回し、まずアメリカ政府と交渉すべきだ。交渉する力がないなら基地を皇居に移設すべきだ。なぜならヒロヒトはアメリカに沖縄を売り渡すことを提案し、天皇制保身のため「主権」売渡し「外交」を積極的に展開した。アキヒトはその路線を継承している。天皇一族は基地を引き受けるべき歴史的責任がある。もしできないというのなら、その理由を述べてみろ!」
再びシュプレヒコールを上げ、横断歩道の向こうの首相官邸前に代表7人が渡り、内閣大臣官房の高木氏に申入書を読み上げ、手渡した。
「2010安保連絡会」の首相への申し入れ事項は5項目だった。
●鳩山前政権の沖縄の民意への裏切りを正し、日米安全保障協議委員会の「共同発表」と閣議決定を全面撤回し、辺野古新基地建設を断念すること
●鳩山前政権発足時から「共同発表」にいきつくまでの協議の過程を米国からの要請内容を含め全面的に明らかにすること
●普天間基地の即時閉鎖と海兵隊の撤退を要求すること
●日米安保に関連する密約のいっさいを明らかにし、その破棄と無効を宣言すること
●核持ち込みをさせないことをあらためて宣言し、日本政府によるその検証を実施すること
その後、静岡、多摩、愛知、札幌、反天連から申入書の一部が読み上げられ、最後に「菅首相に捧ぐ」という詩が読み上げられた。「ショックです。市川房江さんは泣いています」と始まり「消費税10%に庶民はのけぞっています」と続き、「平和憲法を再確認し、一から勉強してください」「怒れる恨の人びとより」と結ばれた。
最後にもう一度「日米安保を廃棄しろ!」「米軍基地はいらない!」と、参加者全員でシュプレヒコールを行い、行動を終えた。
☆週刊読書人6月4日号で、60年安保当時東大駒場で活動していた西部邁と本郷で活動していた長崎浩の対談を読んだ。西部は樺美智子に誘われて58年6月に日本共産党に入党し、長崎は60年6月デモ指揮を行い樺を引率した縁があるそうだ。国会突入方針を決めたブントの戦術会議に島、青木らとともに2人も参加していたそうだ。
また有名な「人しれず微笑まん」の詩は県立神戸高校の同級生、加藤亮太郎氏に贈ったものだそうだ。
幸い雨は降らなかったものの梅雨特有のとても蒸し暑い日で、午後には光化学スモッグ注意報まで発令された。ときおり吹く涼しい風がとても心地よく感じる夕方だった。
ブルー、ピンク、イエローの3匹のジュゴンとともにデモは三宅坂をスタートした。手に手に「怒」「安保NO!」という赤文字のプラカードをもったデモ隊は坂を上りきり、国会正門前に出た。デモ隊は右の歩道を進んだが、左の歩道を歩く公安が参加者の顔を一人ひとりしつこくビデオ撮影するので、デモ参加者から「公安は顔を撮るな!」と罵声が飛んだ。
正門前で国会に向かいシュプレヒコールを上げた。
「日米安保を廃棄しろ!」
「普天間飛行場を即時返還しろ!」
「辺野古に新しい基地をつくるな!」
「閣議決定を撤回しろ!」
「沖縄の人とともに闘うぞ!」
「米軍基地はいらない!」
「沖縄にも徳之島にも、グァムにも基地はいらない!」
国会の南端を回り込むと南通用門がみえてくる。ここが問題の警官隊との激突の場所だ。ただし60年当時は、いまより少し西側(丸ノ内線出入り口付近)に門があったそうだ。
官邸向かいの、千代田線出入り口の先のいつもの歩道で集会を行った。
発言したのは、地方からの参加者を中心に8人だった。
60年安保のころ中学の教員だったという静岡の方は「大戦後65年たった今、沖縄の人にとって戦争は終わっていない。政府はまだ我慢しろというのですか、菅首相や各大臣はどうお答えになりますか、お聞きしたいと思います」と申入書の一部を読み上げ、「この言葉は菅首相だけでなく、わたし自身や参加者にも向けられている。それならこの行動は期間限定ではなく、継続させていきたい」と訴えた。
その他、札幌、名古屋、広島・呉・岩国での取組の報告と政府への要請のスピーチがあった。
またサイクリングのユニフォーム姿のピースサイクルの方から「ペダルをこいで全国の方に基地の問題を訴えたい」とのアピール、立川自衛隊監視テント村の方から7.17横田行動の呼びかけ、緊急アクションの方から7.4新宿ど真ん中デモの呼びかけが行われた。新宿ど真ん中デモは4月、5月にも実行された。アルタ前をスタートし歌舞伎町を練り歩くもので次回は参議院選挙1週間前の4日(土)14時(デモ出発は15時)に開始する。
最後に反天皇制運動連絡会から「対米交渉を!さもなくば『普天間基地」は皇居へ!」という申し入れについて説明があった。「米軍基地NO!の島ぐるみの声が上がっている。菅首相は閣議決定を撤回し、まずアメリカ政府と交渉すべきだ。交渉する力がないなら基地を皇居に移設すべきだ。なぜならヒロヒトはアメリカに沖縄を売り渡すことを提案し、天皇制保身のため「主権」売渡し「外交」を積極的に展開した。アキヒトはその路線を継承している。天皇一族は基地を引き受けるべき歴史的責任がある。もしできないというのなら、その理由を述べてみろ!」
再びシュプレヒコールを上げ、横断歩道の向こうの首相官邸前に代表7人が渡り、内閣大臣官房の高木氏に申入書を読み上げ、手渡した。
「2010安保連絡会」の首相への申し入れ事項は5項目だった。
●鳩山前政権の沖縄の民意への裏切りを正し、日米安全保障協議委員会の「共同発表」と閣議決定を全面撤回し、辺野古新基地建設を断念すること
●鳩山前政権発足時から「共同発表」にいきつくまでの協議の過程を米国からの要請内容を含め全面的に明らかにすること
●普天間基地の即時閉鎖と海兵隊の撤退を要求すること
●日米安保に関連する密約のいっさいを明らかにし、その破棄と無効を宣言すること
●核持ち込みをさせないことをあらためて宣言し、日本政府によるその検証を実施すること
その後、静岡、多摩、愛知、札幌、反天連から申入書の一部が読み上げられ、最後に「菅首相に捧ぐ」という詩が読み上げられた。「ショックです。市川房江さんは泣いています」と始まり「消費税10%に庶民はのけぞっています」と続き、「平和憲法を再確認し、一から勉強してください」「怒れる恨の人びとより」と結ばれた。
最後にもう一度「日米安保を廃棄しろ!」「米軍基地はいらない!」と、参加者全員でシュプレヒコールを行い、行動を終えた。
☆週刊読書人6月4日号で、60年安保当時東大駒場で活動していた西部邁と本郷で活動していた長崎浩の対談を読んだ。西部は樺美智子に誘われて58年6月に日本共産党に入党し、長崎は60年6月デモ指揮を行い樺を引率した縁があるそうだ。国会突入方針を決めたブントの戦術会議に島、青木らとともに2人も参加していたそうだ。
また有名な「人しれず微笑まん」の詩は県立神戸高校の同級生、加藤亮太郎氏に贈ったものだそうだ。