4月16日(土)夜、水道橋の在日本韓国YMCAアジア青少年センターで第59回市民憲法講座(主催 許すな!憲法改悪・市民連絡会)が開催された。地震から1ヵ月、原発事故は収束せず将来への不安を抱えたまま社会はいちおうの落ち着きを取り戻した。わたしはこの講座に参加するのははじめてだが、前回は地震でやむをえず中止、この日もいつもの会場である文京区民センターの夜の貸出しがなくこの会場になったそうだ。
この日の講師は藤森研さんだった。藤森さんは朝日新聞で社会部、朝日ジャーナル編集部、編集委員、論説委員などを経て退職、昨年専修大学文学部に移り、今年から教授になった方だ。(以下の記録の作成にあたり、一部藤森さんの著書「日本国憲法の旅」(花伝社 2011年1月)を利用した)
憲法との出会いの旅――メディアの現場からみた日本国憲法
藤森研さん(元朝日新聞編集委員・専修大学教授)
●日本人が選び取った憲法9条
3月11日から1ヵ月たったが、原発事故はまだ解決のメドも立たないし今日も大きな余震があり、震災中ともいえる。こんなときに憲法の話でよいかと思ったが、こんなときにも必要な憲法だと考え直した。戦後65年の指針が憲法である。憲法を考えることは「いま」を考えることだからだ。
憲法は押し付けだという議論がある。たしかにつくったのはマッカーサーだが、選んだのは日本人である。1946年5月27日付け毎日新聞に世論調査の結果が出ている。憲法に関する本格的世論調査の一番目のものである(注 憲法公布はこの年の11月3日なので調査の時点では「草案」、つまり審議中の世論調査なのでより貴重である)。戦争放棄については70%が「この条項は必要」と答え、日本人が主体的に選び取ったことがわかる。日本人は「あのひどい戦争はもういやだ。平和主義をまっとうするためには天皇主権より国民主権のほうがよい。基本的人権も、ないよりあって意見がいえるほうがよい」と考えたのではないか。平和のための戦後民主主義であり、戦争をしない民主主義であるところが日本のユニークなところだ。逆にいうと、他国は「戦争をする民主主義」なのである。日本の平和意識は世界のなかで独特である。
●与謝野晶子とトルストイ
与謝野晶子は1901年「みだれ髪」を22歳で出版し華々しくデビューしたが、3年後の04年「君死にたまふことなかれ」を明星9月号に発表し、歌壇の大物から論難を浴びた。とくにすごいと思うのは第3連である。
「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出まさね
かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは・・・」
日露戦争中でしかも天皇制のなかで、勇気がいることである。
この歌には、トルストイがこの年6月に書いた「反戦論文」に似た表現がある。論文に「この戦争は、宮殿に安居し栄誉と利益を求める野心家らが日露両国の人民をけしかけて自分たちの欲望のために戦わせているのだ。人間を獣のように殺し合わせるとはそも何事ぞや」とある。
考え方での共通点が2つある。まず、人と人が殺しあう戦争自体が悪ということ、そして戦争被害の階級性である。戦争を始めるのは安全なところにいるツアーや天皇だ。しかし戦争には行かない。だから両国の人民が手をとって「ノー」と言おう、と国際反戦市民連帯の思想が、戦争している両国で響き合った。
トルストイの論文は、ロシア国内では発行禁止となったがザ・タイムスの6月27日号に英文で掲載された。それを幸徳秋水が8月の平民新聞に日本語訳を掲載したことはよく知られている。ただ晶子が平民新聞を閲覧した可能性は低い。じつはこの論文は東京朝日の8月2日から20日に杉村楚人冠の訳で連載されている。与謝野家では朝日を購読していたので見た可能性が高い。
この論文に、世界中の知識人から賛同の嵐が湧き起こった。晶子の歌も東洋からのひとつの返歌といえよう。
大沼保昭・元東大教授によれば、第一次大戦後の平和思想には3つの流れがある。ひとつは集団的安全保障であり、ヨーロッパが中心だった。これは制裁戦争と自衛戦争だけは認めるという考えだ。もうひとつは戦争違法化論(outlawly of war)の流れである。これはアメリカが中心で、あらゆる戦争は違法でありダメという考え方だ。(その他、ガンジーなどの非暴力抵抗主義がある)。2つの思想の幸福な結婚といわれるのが1928年の不戦条約だった。
3年後ある国がこれを崩し、満州「事変」と呼んだ。日本も不戦条約に調印したので「戦争」とは呼べなかったわけだ。
第二次大戦後、自衛が許される場合も厳しく限定し、できるだけ戦争を起こさないように1945年に国連憲章が制定された。
そうしたなかつくられたのが日本国憲法9条だ。9条1項の文言は不戦条約1条ときわめて似ている。トルストイ、晶子、世界の知識人の「戦争自体が悪である」という20世紀初頭に源流を発する思想が流れ込み9条になった。世界の平和思想の橋頭保の位置にあるのが日本国憲法9条である。そして戦争嫌いが国民の共通認識になった特異な国が日本である。世界には「正しい戦争」があると思っている国がまだ多くある。
●20世紀からの宿題
20世紀初頭から反戦の流れが始まったが、戦争を乗り越えるためにまた解決できていない問題はいくつもある。
1932年日本は満州国を「建国」し、32年から35年に国策として4次にわたり開拓団を送り出した。そして満州移民20か年500万人計画を策定した。
80年代に第4次開拓団・哈達河(ハタホ)の遺骨収納訪中団の旅に同行取材した。この開拓団はソ連の参戦に遭遇し、避難の途上、麻山で団員460人余りが集団自決した。かつて耕した場所で、ある男性が「オレら百姓だ、ここが耕地だったことはわかるよ」と言った。「開拓」といいながらそこは中国の農民が先に耕した土地だった。開拓民は被害者であると同時に加害者という構造になっていた。戦争で押し入る略奪も侵略だが、恒常的な侵略は移民である。
一方、日本の貧しい村で小作をしていた個人にとっては「食うや食わずの生活」からの解放だったし、当時世界中がやっていた弱肉強食を日本もやったということである。
第二次大戦の原因は、世界大恐慌の後始末だった。アメリカはニューディール政策を行い、ドイツはアウトバーンをつくり、日本は満州移民を行った。満州侵略以外にどうすればよかったのか。わたしの答えはまだ出ない。
90年代後半取材のためドイツを訪れた。1933年ヒトラーは政権を握ると断種法を制定した。精神障碍者を「生きるに値しない生」「社会的資源の浪費」として子孫を残さないようにしたのだ。しかしそれだけではあまり人数が減らないので、第二次大戦開戦の39年にT4計画という障碍者絶滅政策を実行する。精神病院の障碍者を灰色の長いバスに乗せ、ハダマーなどの精神病院に連れて行き、だましてシャワー室に入れて毒ガスを使い殺した。その後、独ソ戦が始まるとこの作戦の関係者は東方の収容所に転任し、アウシュビッツなどでユダヤ人のホロコースト(大虐殺)を実行した。
人間は生まれつき優劣があるという「健全への狂信」がナチズムを生んだといえる。しかしこれはヒトラーの発明ではない。優生学はむしろアメリカが先行しておりいくつかの州は1910年代に断種法を制定した。また反ユダヤ主義はヨーロッパ、とりわけ中欧で根付いていた。ヒトラーはそれらを極端に拡大しただけではないだろうか。
恐慌で食うに困ったとき、われわれはまったく生産できない人をきちんと食わせ暖かく世話してあげられるかが問われている。「絶対しない」といえる人はどれだけいるのか。わたしはその自信がない。
●護憲と改憲
90年代前半、局長や部長も含む社内の針路研究会で、9条改憲論の分類を試みた。軍事・非軍事指向、国家・市民指向の2軸で4つの象限をつくり分類する方法だ。すると、中曽根のような旧改憲論、小沢や読売新聞のような新改憲論、そして護憲論の3つのグループに分かれることがわかった。さていまどうなっているのだろうか。新改憲論は分解しはじめた。また「つくる会」教科書問題をとおして、新改憲論と旧改憲論が底層でつながっていたことがみえてきた。
5月3日の憲法記念日前後に憲法に関する社説を掲載する新聞が多い。わたくしは2004年に護憲、改憲、論権(毎日新聞のように憲法について国民的議論を起こそうという主張)に分類した。社説のある県紙・全国紙43社のうち、護憲が17社、護憲的論権が11社、改憲的論権が11社、改憲が4社だった。社数ではかなり護憲(護憲的論権含む)が多い。しかし改憲の4社は、読売、日経、産経、北国と部数の多い社が多いので、部数で比較すると護憲(護憲的論権含む)が6割、改憲(改憲的論権含む)が4割だった。じつは国民の世論調査でも同じ比率である。つまり新聞論調と世論は一致しているということだ。これらの比率は2004年、2010年にも追跡調査したが、ほぼ同じ結果だった。
ところが国会議員の比率は逆になっている。議員のうち70%が改憲派なのである。ねじれ減少が見られる。
●震災後、社会はどう変わるか
まだ震災中ということもあり単なるわたしの思い過ごしに過ぎないかもしれないが、今回の震災で懸念される点がいくつかある。
ひとつは自民・民主大連立の可能性だ。統一地方選で民主が負けたので当面遠のいたが、大連立すれば両党とも改憲派なので、改憲の危険性がある。
もうひとつは「がんばれ日本! 団結しよう」というAC広告の連呼である。ここ数年、在特会にみられるように排外的機運が高まっている。いままで言える場がなかった人たちがネットにより発言の場を確保した。それが街頭に現れたのが在特会である。そのなかでこの震災が起きた。
さて日本は震災後どう変わるのだろうか。まず原発を含むエネルギー政策の転換がある。自然エネルギーの利用と「24時間電気」という生活の見直し、この2つが進展するだろう。
次の社会をどうしようかという議論が、まさにこれから始まる。一方、国民主権は日本に根付き、巻町で始まった住民投票、情報公開、NPO法など「普通の市民が主人公」の市民主権化がいま始まりつつある。
混沌としているが、時代がこれから変わることは明らかだ。65年間われわれの指針であり続けた憲法はまだ未完だと思う。この憲法を背骨として、市民みんなで進めていけるとよいと思う。
☆学生時代、憲法のゼミに所属した藤森さん、35年の新聞記者生活は憲法の課題に出会う旅だったという。憲法への「愛情」が感じられる講演だった。
9条と自衛隊の現実との乖離論を問われれば「たしかにその通りだ。しかしはじめから乖離していたわけではない。あなたはなぜ国連憲章の乖離を問題にしないのか。国連憲章が現実と乖離しているから仕方なく自衛隊をつくった。順序が逆だ」と一言で言い返しているそうだ。また、日本は9条で国際貢献ずべきだとの主張はまったくそのとおりだと思った。
この日の講師は藤森研さんだった。藤森さんは朝日新聞で社会部、朝日ジャーナル編集部、編集委員、論説委員などを経て退職、昨年専修大学文学部に移り、今年から教授になった方だ。(以下の記録の作成にあたり、一部藤森さんの著書「日本国憲法の旅」(花伝社 2011年1月)を利用した)
憲法との出会いの旅――メディアの現場からみた日本国憲法
藤森研さん(元朝日新聞編集委員・専修大学教授)
●日本人が選び取った憲法9条
3月11日から1ヵ月たったが、原発事故はまだ解決のメドも立たないし今日も大きな余震があり、震災中ともいえる。こんなときに憲法の話でよいかと思ったが、こんなときにも必要な憲法だと考え直した。戦後65年の指針が憲法である。憲法を考えることは「いま」を考えることだからだ。
憲法は押し付けだという議論がある。たしかにつくったのはマッカーサーだが、選んだのは日本人である。1946年5月27日付け毎日新聞に世論調査の結果が出ている。憲法に関する本格的世論調査の一番目のものである(注 憲法公布はこの年の11月3日なので調査の時点では「草案」、つまり審議中の世論調査なのでより貴重である)。戦争放棄については70%が「この条項は必要」と答え、日本人が主体的に選び取ったことがわかる。日本人は「あのひどい戦争はもういやだ。平和主義をまっとうするためには天皇主権より国民主権のほうがよい。基本的人権も、ないよりあって意見がいえるほうがよい」と考えたのではないか。平和のための戦後民主主義であり、戦争をしない民主主義であるところが日本のユニークなところだ。逆にいうと、他国は「戦争をする民主主義」なのである。日本の平和意識は世界のなかで独特である。
●与謝野晶子とトルストイ
与謝野晶子は1901年「みだれ髪」を22歳で出版し華々しくデビューしたが、3年後の04年「君死にたまふことなかれ」を明星9月号に発表し、歌壇の大物から論難を浴びた。とくにすごいと思うのは第3連である。
「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出まさね
かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは・・・」
日露戦争中でしかも天皇制のなかで、勇気がいることである。
この歌には、トルストイがこの年6月に書いた「反戦論文」に似た表現がある。論文に「この戦争は、宮殿に安居し栄誉と利益を求める野心家らが日露両国の人民をけしかけて自分たちの欲望のために戦わせているのだ。人間を獣のように殺し合わせるとはそも何事ぞや」とある。
考え方での共通点が2つある。まず、人と人が殺しあう戦争自体が悪ということ、そして戦争被害の階級性である。戦争を始めるのは安全なところにいるツアーや天皇だ。しかし戦争には行かない。だから両国の人民が手をとって「ノー」と言おう、と国際反戦市民連帯の思想が、戦争している両国で響き合った。
トルストイの論文は、ロシア国内では発行禁止となったがザ・タイムスの6月27日号に英文で掲載された。それを幸徳秋水が8月の平民新聞に日本語訳を掲載したことはよく知られている。ただ晶子が平民新聞を閲覧した可能性は低い。じつはこの論文は東京朝日の8月2日から20日に杉村楚人冠の訳で連載されている。与謝野家では朝日を購読していたので見た可能性が高い。
この論文に、世界中の知識人から賛同の嵐が湧き起こった。晶子の歌も東洋からのひとつの返歌といえよう。
大沼保昭・元東大教授によれば、第一次大戦後の平和思想には3つの流れがある。ひとつは集団的安全保障であり、ヨーロッパが中心だった。これは制裁戦争と自衛戦争だけは認めるという考えだ。もうひとつは戦争違法化論(outlawly of war)の流れである。これはアメリカが中心で、あらゆる戦争は違法でありダメという考え方だ。(その他、ガンジーなどの非暴力抵抗主義がある)。2つの思想の幸福な結婚といわれるのが1928年の不戦条約だった。
3年後ある国がこれを崩し、満州「事変」と呼んだ。日本も不戦条約に調印したので「戦争」とは呼べなかったわけだ。
第二次大戦後、自衛が許される場合も厳しく限定し、できるだけ戦争を起こさないように1945年に国連憲章が制定された。
そうしたなかつくられたのが日本国憲法9条だ。9条1項の文言は不戦条約1条ときわめて似ている。トルストイ、晶子、世界の知識人の「戦争自体が悪である」という20世紀初頭に源流を発する思想が流れ込み9条になった。世界の平和思想の橋頭保の位置にあるのが日本国憲法9条である。そして戦争嫌いが国民の共通認識になった特異な国が日本である。世界には「正しい戦争」があると思っている国がまだ多くある。
●20世紀からの宿題
20世紀初頭から反戦の流れが始まったが、戦争を乗り越えるためにまた解決できていない問題はいくつもある。
1932年日本は満州国を「建国」し、32年から35年に国策として4次にわたり開拓団を送り出した。そして満州移民20か年500万人計画を策定した。
80年代に第4次開拓団・哈達河(ハタホ)の遺骨収納訪中団の旅に同行取材した。この開拓団はソ連の参戦に遭遇し、避難の途上、麻山で団員460人余りが集団自決した。かつて耕した場所で、ある男性が「オレら百姓だ、ここが耕地だったことはわかるよ」と言った。「開拓」といいながらそこは中国の農民が先に耕した土地だった。開拓民は被害者であると同時に加害者という構造になっていた。戦争で押し入る略奪も侵略だが、恒常的な侵略は移民である。
一方、日本の貧しい村で小作をしていた個人にとっては「食うや食わずの生活」からの解放だったし、当時世界中がやっていた弱肉強食を日本もやったということである。
第二次大戦の原因は、世界大恐慌の後始末だった。アメリカはニューディール政策を行い、ドイツはアウトバーンをつくり、日本は満州移民を行った。満州侵略以外にどうすればよかったのか。わたしの答えはまだ出ない。
90年代後半取材のためドイツを訪れた。1933年ヒトラーは政権を握ると断種法を制定した。精神障碍者を「生きるに値しない生」「社会的資源の浪費」として子孫を残さないようにしたのだ。しかしそれだけではあまり人数が減らないので、第二次大戦開戦の39年にT4計画という障碍者絶滅政策を実行する。精神病院の障碍者を灰色の長いバスに乗せ、ハダマーなどの精神病院に連れて行き、だましてシャワー室に入れて毒ガスを使い殺した。その後、独ソ戦が始まるとこの作戦の関係者は東方の収容所に転任し、アウシュビッツなどでユダヤ人のホロコースト(大虐殺)を実行した。
人間は生まれつき優劣があるという「健全への狂信」がナチズムを生んだといえる。しかしこれはヒトラーの発明ではない。優生学はむしろアメリカが先行しておりいくつかの州は1910年代に断種法を制定した。また反ユダヤ主義はヨーロッパ、とりわけ中欧で根付いていた。ヒトラーはそれらを極端に拡大しただけではないだろうか。
恐慌で食うに困ったとき、われわれはまったく生産できない人をきちんと食わせ暖かく世話してあげられるかが問われている。「絶対しない」といえる人はどれだけいるのか。わたしはその自信がない。
●護憲と改憲
90年代前半、局長や部長も含む社内の針路研究会で、9条改憲論の分類を試みた。軍事・非軍事指向、国家・市民指向の2軸で4つの象限をつくり分類する方法だ。すると、中曽根のような旧改憲論、小沢や読売新聞のような新改憲論、そして護憲論の3つのグループに分かれることがわかった。さていまどうなっているのだろうか。新改憲論は分解しはじめた。また「つくる会」教科書問題をとおして、新改憲論と旧改憲論が底層でつながっていたことがみえてきた。
5月3日の憲法記念日前後に憲法に関する社説を掲載する新聞が多い。わたくしは2004年に護憲、改憲、論権(毎日新聞のように憲法について国民的議論を起こそうという主張)に分類した。社説のある県紙・全国紙43社のうち、護憲が17社、護憲的論権が11社、改憲的論権が11社、改憲が4社だった。社数ではかなり護憲(護憲的論権含む)が多い。しかし改憲の4社は、読売、日経、産経、北国と部数の多い社が多いので、部数で比較すると護憲(護憲的論権含む)が6割、改憲(改憲的論権含む)が4割だった。じつは国民の世論調査でも同じ比率である。つまり新聞論調と世論は一致しているということだ。これらの比率は2004年、2010年にも追跡調査したが、ほぼ同じ結果だった。
ところが国会議員の比率は逆になっている。議員のうち70%が改憲派なのである。ねじれ減少が見られる。
●震災後、社会はどう変わるか
まだ震災中ということもあり単なるわたしの思い過ごしに過ぎないかもしれないが、今回の震災で懸念される点がいくつかある。
ひとつは自民・民主大連立の可能性だ。統一地方選で民主が負けたので当面遠のいたが、大連立すれば両党とも改憲派なので、改憲の危険性がある。
もうひとつは「がんばれ日本! 団結しよう」というAC広告の連呼である。ここ数年、在特会にみられるように排外的機運が高まっている。いままで言える場がなかった人たちがネットにより発言の場を確保した。それが街頭に現れたのが在特会である。そのなかでこの震災が起きた。
さて日本は震災後どう変わるのだろうか。まず原発を含むエネルギー政策の転換がある。自然エネルギーの利用と「24時間電気」という生活の見直し、この2つが進展するだろう。
次の社会をどうしようかという議論が、まさにこれから始まる。一方、国民主権は日本に根付き、巻町で始まった住民投票、情報公開、NPO法など「普通の市民が主人公」の市民主権化がいま始まりつつある。
混沌としているが、時代がこれから変わることは明らかだ。65年間われわれの指針であり続けた憲法はまだ未完だと思う。この憲法を背骨として、市民みんなで進めていけるとよいと思う。
☆学生時代、憲法のゼミに所属した藤森さん、35年の新聞記者生活は憲法の課題に出会う旅だったという。憲法への「愛情」が感じられる講演だった。
9条と自衛隊の現実との乖離論を問われれば「たしかにその通りだ。しかしはじめから乖離していたわけではない。あなたはなぜ国連憲章の乖離を問題にしないのか。国連憲章が現実と乖離しているから仕方なく自衛隊をつくった。順序が逆だ」と一言で言い返しているそうだ。また、日本は9条で国際貢献ずべきだとの主張はまったくそのとおりだと思った。