1月26日に公開された「母べえ」(山田洋次監督、松竹配給)を見た。
独文学者の父べえ、母べえ、12歳の初べえ、9歳の照べえの野上一家、父の教え子で出版社勤務の山ちゃん、広島から絵の勉強に上京した父の妹チャコちゃんがメインの登場人だ。チャコちゃんは山ちゃんに好意を抱いているが、山ちゃんは密かに母に憧れており、実ることのない三角関係になっている。
昭和15年(1940年)2月早朝4時の父の突然の検挙、留置場での面会、拘置所へのウチワや書籍の差し入れ、手紙のやりとり、17年(1942年)正月の父の獄死を軸に、正月の羽根つき、桜の季節の留置場、夏の海水浴、雪の四谷の旅館など四季折々の情景を織り交ぜながらストーリーは進行していく。
野上一家を取り巻く、奈良のおじさん(笑福亭鶴瓶)、隣組の炭屋のおじさん(でんでん)、元警官の母の実父(中村梅之助)、父を検挙する刑事(笹野高史)、母を往診する老医師(大滝秀治)など脇役もそれぞれの個性をよく描けていた。
とくに注目すべきは、炭屋のおじさんと奈良のおじさんだ。隣組の組長を務める炭屋のおじさんは、父が検挙された後、母を代用教員の職に世話したり、炭を一俵「あるとき払いでいいよ」と置いていってくれたり、何かと母に親切にしてくれるいい人だ。しかし日中戦争の時代から日本が世界の最強国になることを夢み、太平洋戦争が始まると「こうこなくっちゃ!」と狂喜する。軍国主義は軍部や政府だけでなく、こういうタイプの庶民が推進していったのは確かだ。
奈良のおじさんは、おカネが大好きで、「理屈やない、カネや」が口癖。スイカの種を庭に吐き散らしたり、初べえの胸をイヤラシイ目で見るので、初べえは大嫌いだ。しかし母は「ほかの人は信頼できない。おじさんの顔を見るとホッとする」と言う。新宿二幸(現アルタビル)前で大日本国防婦人会の女性が「華美な服装は慎みましょう、指輪は供出しましょう」と通行人に声をかける贅沢品撲滅運動を繰り広げていたとき、大きな金の指輪をしたおじさんは供出を断り「非国民」と罵られる。「贅沢はステキや」と悪態をついたため警官に「ちょっと来い」と交番に連行される。
野上一家+山ちゃん、チャコちゃん、老医師の戦争消極派、炭屋のおじさんや大日本国防婦人会の戦争推進派、第三者の立場を堅持する奈良のおじさん、「国賊」と指弾される父と立場はそれぞれ、いろんな「国民」がいた。しかし時代の空気は、すべての人をいやおうなしに巻き込み押し流していった。
この「空気」の描き方が巧みである。たとえば、歌でいうと、ラジオから流れる「金鵄輝く日本の、栄えある光」という「紀元二千六百年」の歌、四大節のときに小学校の講堂で歌う祝典歌(「今日のよき日は大君の、生まれたまいしよき日なり」で始まる天長節(4月29日)の歌と「アジアの東、日出づるところ」で始まる明治節(11月3日)の歌)、灯火管制で黒いカーテンを閉めた室内のラジオから流れる「海ゆかば」、奈良のおじを見送りに行った品川駅で、たまたま出征する若者に向け歌われていた「出征兵士を送る歌」(右翼がよく街宣車で流している「いざ征けつわもの日本男児」という歌)が出てきた。効果的な使われ方というレベルを超え、小学生が講堂に整列し、壇上に天皇・皇后の御真影を前に掲げる光景、「贅沢は敵だ」のポスター、元警官で隣保館館長の職を辞さざるをえなくなった父のことを「お父さんは田舎で針のムシロじゃ。わかってあげてほしい」という義母のセリフ、「ドイツ軍パリ入城」の新聞記事(1940年6月)、41年12月8日朝7時のラジオの臨時ニュースなどとミックスされ、当時の「空気」をリアルに体感させる。
照べえの友達や代用教員として働く小学校の子どもたちの表情や仕草がじつにいい。飯田市の小学生150人の協力を得て、男の子は坊主刈り、女の子はおかっぱにそろえたそうだ。街並みのセット、髪型・服装まで時代考証をしっかりやり、時代をリアルに再現していた。
映画評にみられるように、わたしも吉永小百合はミスキャストだと思う。
それでも吉永登場のシーンで3つ印象的なものがあった。ひとつは代用教員としてオルガンを弾きながら歌う場面、もうひとつは海水浴で溺れた山崎を助けようとクロールで力泳する場面、そして出征を告げた山崎との別れの場の美しい横顔だ。しかし考えてみるとすべてセリフのないシーンばかりだ。
また、差入れ用の原書を本郷・西片町の父の恩師に借りにいき「悪法といえども守らねばならない」という教授に「夫はどんな悪いことをしたというのでしょう」と言い切り席を立つ場面、山口から上京した父に勘当され義母に「おばさん、父をよろしくお願いします」と言って四谷の旅館から出る場面はキリッとしていてよかった。まるで「キューポラのある街」(1962年)のジュンのようだった。
ところで、どちらの場面も食べたかったのに食べられなかった食べ物(前者はカステラ、後者はすき焼き)が出てくる。食べ物とセットになった子ども時代の記憶はたしかにいつまでも忘れないものだ。
なお教授とのやりとりは、戦時中の田辺元と久野収の本当の会話に基づくそうだ。
男はつらいよシリーズの9作「柴又慕情」(72年)、13作「寅次郎恋やつれ」(74年)の歌子役は感動的な適役で、監督は吉永のことを十分理解しているはずなのだが・・・。
なお60歳台の吉永が30歳台の役を演じていることは、見ていて違和感は感じなかった。
音楽は富田勲で、バッハのようなピアノ曲とラフマニノフのヴォカリーズのような声楽曲(歌手は佐藤しのぶ)がバックに流れていた。山田監督の押さえたトーンと静謐な音楽がピッタリ合っていた。
☆山田洋次監督の映画は、かなり見ている。寅さんシリーズ48作はそれぞれ味があって好きだ。その他「学校」シリーズ、「息子」(1991年)など印象に残る映画が多いが、とりわけ笠智衆が炭坑節を踊る「家族」(1970年)が思い出深い。あれは1970年の日本万国博を背景にした映画だった。
独文学者の父べえ、母べえ、12歳の初べえ、9歳の照べえの野上一家、父の教え子で出版社勤務の山ちゃん、広島から絵の勉強に上京した父の妹チャコちゃんがメインの登場人だ。チャコちゃんは山ちゃんに好意を抱いているが、山ちゃんは密かに母に憧れており、実ることのない三角関係になっている。
昭和15年(1940年)2月早朝4時の父の突然の検挙、留置場での面会、拘置所へのウチワや書籍の差し入れ、手紙のやりとり、17年(1942年)正月の父の獄死を軸に、正月の羽根つき、桜の季節の留置場、夏の海水浴、雪の四谷の旅館など四季折々の情景を織り交ぜながらストーリーは進行していく。
野上一家を取り巻く、奈良のおじさん(笑福亭鶴瓶)、隣組の炭屋のおじさん(でんでん)、元警官の母の実父(中村梅之助)、父を検挙する刑事(笹野高史)、母を往診する老医師(大滝秀治)など脇役もそれぞれの個性をよく描けていた。
とくに注目すべきは、炭屋のおじさんと奈良のおじさんだ。隣組の組長を務める炭屋のおじさんは、父が検挙された後、母を代用教員の職に世話したり、炭を一俵「あるとき払いでいいよ」と置いていってくれたり、何かと母に親切にしてくれるいい人だ。しかし日中戦争の時代から日本が世界の最強国になることを夢み、太平洋戦争が始まると「こうこなくっちゃ!」と狂喜する。軍国主義は軍部や政府だけでなく、こういうタイプの庶民が推進していったのは確かだ。
奈良のおじさんは、おカネが大好きで、「理屈やない、カネや」が口癖。スイカの種を庭に吐き散らしたり、初べえの胸をイヤラシイ目で見るので、初べえは大嫌いだ。しかし母は「ほかの人は信頼できない。おじさんの顔を見るとホッとする」と言う。新宿二幸(現アルタビル)前で大日本国防婦人会の女性が「華美な服装は慎みましょう、指輪は供出しましょう」と通行人に声をかける贅沢品撲滅運動を繰り広げていたとき、大きな金の指輪をしたおじさんは供出を断り「非国民」と罵られる。「贅沢はステキや」と悪態をついたため警官に「ちょっと来い」と交番に連行される。
野上一家+山ちゃん、チャコちゃん、老医師の戦争消極派、炭屋のおじさんや大日本国防婦人会の戦争推進派、第三者の立場を堅持する奈良のおじさん、「国賊」と指弾される父と立場はそれぞれ、いろんな「国民」がいた。しかし時代の空気は、すべての人をいやおうなしに巻き込み押し流していった。
この「空気」の描き方が巧みである。たとえば、歌でいうと、ラジオから流れる「金鵄輝く日本の、栄えある光」という「紀元二千六百年」の歌、四大節のときに小学校の講堂で歌う祝典歌(「今日のよき日は大君の、生まれたまいしよき日なり」で始まる天長節(4月29日)の歌と「アジアの東、日出づるところ」で始まる明治節(11月3日)の歌)、灯火管制で黒いカーテンを閉めた室内のラジオから流れる「海ゆかば」、奈良のおじを見送りに行った品川駅で、たまたま出征する若者に向け歌われていた「出征兵士を送る歌」(右翼がよく街宣車で流している「いざ征けつわもの日本男児」という歌)が出てきた。効果的な使われ方というレベルを超え、小学生が講堂に整列し、壇上に天皇・皇后の御真影を前に掲げる光景、「贅沢は敵だ」のポスター、元警官で隣保館館長の職を辞さざるをえなくなった父のことを「お父さんは田舎で針のムシロじゃ。わかってあげてほしい」という義母のセリフ、「ドイツ軍パリ入城」の新聞記事(1940年6月)、41年12月8日朝7時のラジオの臨時ニュースなどとミックスされ、当時の「空気」をリアルに体感させる。
照べえの友達や代用教員として働く小学校の子どもたちの表情や仕草がじつにいい。飯田市の小学生150人の協力を得て、男の子は坊主刈り、女の子はおかっぱにそろえたそうだ。街並みのセット、髪型・服装まで時代考証をしっかりやり、時代をリアルに再現していた。
映画評にみられるように、わたしも吉永小百合はミスキャストだと思う。
それでも吉永登場のシーンで3つ印象的なものがあった。ひとつは代用教員としてオルガンを弾きながら歌う場面、もうひとつは海水浴で溺れた山崎を助けようとクロールで力泳する場面、そして出征を告げた山崎との別れの場の美しい横顔だ。しかし考えてみるとすべてセリフのないシーンばかりだ。
また、差入れ用の原書を本郷・西片町の父の恩師に借りにいき「悪法といえども守らねばならない」という教授に「夫はどんな悪いことをしたというのでしょう」と言い切り席を立つ場面、山口から上京した父に勘当され義母に「おばさん、父をよろしくお願いします」と言って四谷の旅館から出る場面はキリッとしていてよかった。まるで「キューポラのある街」(1962年)のジュンのようだった。
ところで、どちらの場面も食べたかったのに食べられなかった食べ物(前者はカステラ、後者はすき焼き)が出てくる。食べ物とセットになった子ども時代の記憶はたしかにいつまでも忘れないものだ。
なお教授とのやりとりは、戦時中の田辺元と久野収の本当の会話に基づくそうだ。
男はつらいよシリーズの9作「柴又慕情」(72年)、13作「寅次郎恋やつれ」(74年)の歌子役は感動的な適役で、監督は吉永のことを十分理解しているはずなのだが・・・。
なお60歳台の吉永が30歳台の役を演じていることは、見ていて違和感は感じなかった。
音楽は富田勲で、バッハのようなピアノ曲とラフマニノフのヴォカリーズのような声楽曲(歌手は佐藤しのぶ)がバックに流れていた。山田監督の押さえたトーンと静謐な音楽がピッタリ合っていた。
☆山田洋次監督の映画は、かなり見ている。寅さんシリーズ48作はそれぞれ味があって好きだ。その他「学校」シリーズ、「息子」(1991年)など印象に残る映画が多いが、とりわけ笠智衆が炭坑節を踊る「家族」(1970年)が思い出深い。あれは1970年の日本万国博を背景にした映画だった。