練馬区光が丘の4つの学校跡施設問題について、昨年10月18日「光が丘学校跡地利用を考える会」がキックオフし、11月20日に住民主催の学校跡施設説明会を開催したところまでこのブログに掲載した。
それから3ヵ月、とくにここ1週間でこの問題は急展開しつつある。
区は12月8日素案を案に「昇格」させた。このときは「借受候補者が明確になった段階で周辺地域の住民に説明会を開催する」「光が丘7小は、民間利用が困難あるいは限定的になるなどの際には、公共的利用を検討する」「民間利用の場合、製造・加工業以外に物流センター的な事業者も排除する」など、いくつか前向きな修正が加えられた。しかし1月に案が計画に「昇格」したときには修正はゼロだった。正確にいえば12月に練馬区基本計画が策定されたので、「区の課題」のなかの「『ねりま未来プロジェクト』として定める方向で検討しています」という文言が「定めました」に変更になった。それだけだった。
学校跡施設は、たしかに区議会への報告事項に過ぎないが、通常担当委員会(この問題の場合は企画総務委員会)が区から報告を受けたあと、基本計画(案)が基本計画になり全議員に配布される。ところが委員会への報告は行われず、ひどいことに委員会開催の2日前の1月19日に区の職員が「計画」というタイトルで全議員の棚に配布した。
こういう強引な区の姿勢にはもちろん区民が反発した。2月14日(日)団地内の2つの管理組合の主催で、区の説明会が開催された。避難拠点としての学校用地の問題、東京都でも始まりつつある小人数学級になったときの懸念、いまでも住民サークル用施設が不足している問題など、切実な疑問が噴出した。
そのほか、84年7月に学校施設等を整備するため対象戸数5471戸に1戸当たり協力金110万円を乗じた60.181億円を、公団が区に支払う協定を結んだ協力金問題もある。公団は実費で分譲していたので、その金額は販売価格に上乗せしたことを公団自身が認めている。つまりこの地域の住民は一般的な区民、保護者ではなく、学校開校当時から区にとって特別な利害関係者なのである。
計画の白紙撤回を求める強い要請もあった。説明会には、衆議院議員2人を含む8人の議員が出席していたが、「住民と行政がよく話し合い、いい形で解決してほしい」という感想が述べられた。
光二小と光五小のレイアウト図(紫の部分が、住民向けのスペース。4校の校舎面積16200平方メートルのうち220平方メートル、1.5%しかない)
その2日後、さらに驚くべき事態が生じた。区が都市計画の見直しを16日(火)の懇談会で発表したのだ。現在光が丘地区は「一団地の住宅施設」という強力な都市計画のアミが全域にかかっている。小学校の位置と数が図面で決まっているため、現状、学校以外の用途に転用することはできない。それなら都市計画の一部変更をすればよいのに、区はいったん「一団地の住宅施設」を廃止し、新たに「地区計画」の計画決定をしようというのである。いままでは、4ヘクタールの学校跡地だけの問題だったが、一挙に団地の全域100ヘクタールへと問題が拡大した。この日の区の説明のとおりなら、たとえば「2階以下かつ500平方メートル以内の一定の店舗、飲食店」の建設が可能になる。200席もある大型飲食店がそこかしこに作ることができるということだ。住民はいまのままで満足しているのだが。
区は、「一団地の住宅施設」は「ガチガチ」で都が決定主体になっているが、「地区計画」なら区が主導し都は同意するだけになるので(区の)自由度が増すので地区計画にしたいという。もちろん住民が主体的に参画できるまちづくり計画なら、「地区計画」への変更も望ましいかもしれない。だが、そうではないのである。
しかも「かわら版」という光が丘地区に全戸配布した広報紙1号では、地区計画にすることは「国や都の方針」だからだと説明をした。しかしそれが事実に反することを、たまたま住民のなかに都市計画に詳しい方がいたため、発覚した。
また国土交通省の2008年12月の運用指針には、一団地を廃止する場合「住民等利害関係者の意向にも配慮し」という文言が入っているのに、区の資料はこの重要な文言を削除していた。その他、「地区計画への住民または利害関係人からの申出で」や「提案制度」についてもまったく触れていない。しかも、区は、なぜか01年12月の古い指針から抜粋していた。
懇談会で配布された問題の資料。意図的改ざんか否かは不明だが、疑惑が発覚した
21日(日)夜行われた懇談会で、まだ大勢の人が質問のため手を挙げているなか、司会をしていた区の職員は「9時半にはこの会場をあけないといけない」と質疑を一方的に打ち切り、羽生慶一郎・まちづくり推進調整課長は「お忙しいところお出でいただきありがとうございました」と閉会のあいさつを始めた。住民は「なぜ打ち切りなんだ?」「もう1回懇談会をやると言え!」「都市計画運用指針にも、一団地の住宅施設を廃止するときは『住民等利害関係者の意向にも配慮』と書いてあるじゃないか!」「ダメだよう」と怒号が渦巻き、抗議のため区役所の職員席に詰め寄る住民もいた。
区主催の懇談会は2回で終了、次は新年度に区が素案をつくったとき説明会を開催するという。都の都市づくり政策部土地利用計画課の担当者も、提案してから1年で計画決定に持ち込もうとする練馬区の強引な進め方に呆然としていたそうだ。
わたしが学生だった数十年前でも世田谷の大型ショッピングセンター反対運動、国立の歩道橋反対運動などをきっかけにした住民によるまちづくり活動が知られていた。練馬区役所だけ数十年間時間が止まっていたようで、まったく驚いた。
光が丘地区は、住民が住み始める前に、ハードはすっかりできあがっていたので住民がまちづくりに参画するチャンスがなかった。やっと住民のための住民によるまちづくりを始められる時機が到来した。それなのに練馬区は「全体の視点をもっているのは区だけなので自分でやる。住民は口を出すな」と言いたいようだ。
この強権的な議論打切りは、羽生慶一郎・まちづくり推進調整課長と宮下泰昌企画課長の2人が、光が丘の1万2000世帯、29000人の区民を敵に回し「宣戦布告」したかのように見えた。
今後も「光が丘学校跡地利用を考える会」のブログにご注目いただきたい。
それから3ヵ月、とくにここ1週間でこの問題は急展開しつつある。
区は12月8日素案を案に「昇格」させた。このときは「借受候補者が明確になった段階で周辺地域の住民に説明会を開催する」「光が丘7小は、民間利用が困難あるいは限定的になるなどの際には、公共的利用を検討する」「民間利用の場合、製造・加工業以外に物流センター的な事業者も排除する」など、いくつか前向きな修正が加えられた。しかし1月に案が計画に「昇格」したときには修正はゼロだった。正確にいえば12月に練馬区基本計画が策定されたので、「区の課題」のなかの「『ねりま未来プロジェクト』として定める方向で検討しています」という文言が「定めました」に変更になった。それだけだった。
学校跡施設は、たしかに区議会への報告事項に過ぎないが、通常担当委員会(この問題の場合は企画総務委員会)が区から報告を受けたあと、基本計画(案)が基本計画になり全議員に配布される。ところが委員会への報告は行われず、ひどいことに委員会開催の2日前の1月19日に区の職員が「計画」というタイトルで全議員の棚に配布した。
こういう強引な区の姿勢にはもちろん区民が反発した。2月14日(日)団地内の2つの管理組合の主催で、区の説明会が開催された。避難拠点としての学校用地の問題、東京都でも始まりつつある小人数学級になったときの懸念、いまでも住民サークル用施設が不足している問題など、切実な疑問が噴出した。
そのほか、84年7月に学校施設等を整備するため対象戸数5471戸に1戸当たり協力金110万円を乗じた60.181億円を、公団が区に支払う協定を結んだ協力金問題もある。公団は実費で分譲していたので、その金額は販売価格に上乗せしたことを公団自身が認めている。つまりこの地域の住民は一般的な区民、保護者ではなく、学校開校当時から区にとって特別な利害関係者なのである。
計画の白紙撤回を求める強い要請もあった。説明会には、衆議院議員2人を含む8人の議員が出席していたが、「住民と行政がよく話し合い、いい形で解決してほしい」という感想が述べられた。
光二小と光五小のレイアウト図(紫の部分が、住民向けのスペース。4校の校舎面積16200平方メートルのうち220平方メートル、1.5%しかない)
その2日後、さらに驚くべき事態が生じた。区が都市計画の見直しを16日(火)の懇談会で発表したのだ。現在光が丘地区は「一団地の住宅施設」という強力な都市計画のアミが全域にかかっている。小学校の位置と数が図面で決まっているため、現状、学校以外の用途に転用することはできない。それなら都市計画の一部変更をすればよいのに、区はいったん「一団地の住宅施設」を廃止し、新たに「地区計画」の計画決定をしようというのである。いままでは、4ヘクタールの学校跡地だけの問題だったが、一挙に団地の全域100ヘクタールへと問題が拡大した。この日の区の説明のとおりなら、たとえば「2階以下かつ500平方メートル以内の一定の店舗、飲食店」の建設が可能になる。200席もある大型飲食店がそこかしこに作ることができるということだ。住民はいまのままで満足しているのだが。
区は、「一団地の住宅施設」は「ガチガチ」で都が決定主体になっているが、「地区計画」なら区が主導し都は同意するだけになるので(区の)自由度が増すので地区計画にしたいという。もちろん住民が主体的に参画できるまちづくり計画なら、「地区計画」への変更も望ましいかもしれない。だが、そうではないのである。
しかも「かわら版」という光が丘地区に全戸配布した広報紙1号では、地区計画にすることは「国や都の方針」だからだと説明をした。しかしそれが事実に反することを、たまたま住民のなかに都市計画に詳しい方がいたため、発覚した。
また国土交通省の2008年12月の運用指針には、一団地を廃止する場合「住民等利害関係者の意向にも配慮し」という文言が入っているのに、区の資料はこの重要な文言を削除していた。その他、「地区計画への住民または利害関係人からの申出で」や「提案制度」についてもまったく触れていない。しかも、区は、なぜか01年12月の古い指針から抜粋していた。
懇談会で配布された問題の資料。意図的改ざんか否かは不明だが、疑惑が発覚した
21日(日)夜行われた懇談会で、まだ大勢の人が質問のため手を挙げているなか、司会をしていた区の職員は「9時半にはこの会場をあけないといけない」と質疑を一方的に打ち切り、羽生慶一郎・まちづくり推進調整課長は「お忙しいところお出でいただきありがとうございました」と閉会のあいさつを始めた。住民は「なぜ打ち切りなんだ?」「もう1回懇談会をやると言え!」「都市計画運用指針にも、一団地の住宅施設を廃止するときは『住民等利害関係者の意向にも配慮』と書いてあるじゃないか!」「ダメだよう」と怒号が渦巻き、抗議のため区役所の職員席に詰め寄る住民もいた。
区主催の懇談会は2回で終了、次は新年度に区が素案をつくったとき説明会を開催するという。都の都市づくり政策部土地利用計画課の担当者も、提案してから1年で計画決定に持ち込もうとする練馬区の強引な進め方に呆然としていたそうだ。
わたしが学生だった数十年前でも世田谷の大型ショッピングセンター反対運動、国立の歩道橋反対運動などをきっかけにした住民によるまちづくり活動が知られていた。練馬区役所だけ数十年間時間が止まっていたようで、まったく驚いた。
光が丘地区は、住民が住み始める前に、ハードはすっかりできあがっていたので住民がまちづくりに参画するチャンスがなかった。やっと住民のための住民によるまちづくりを始められる時機が到来した。それなのに練馬区は「全体の視点をもっているのは区だけなので自分でやる。住民は口を出すな」と言いたいようだ。
この強権的な議論打切りは、羽生慶一郎・まちづくり推進調整課長と宮下泰昌企画課長の2人が、光が丘の1万2000世帯、29000人の区民を敵に回し「宣戦布告」したかのように見えた。
今後も「光が丘学校跡地利用を考える会」のブログにご注目いただきたい。