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井上久士が語る、日中国交正常化50年の歩み

2022年08月22日 | 集会報告

今年は、沖縄返還50周年だけでなく、日中国交正常化50年の記念の年である。ところが台湾をめぐり日中、米中の緊張が高まっている。
8月13日(土)午後、「平和をねがう中央区民の戦争展」で日中戦争の歴史に詳しい井上久士さんの講演を聞いた(主催 平和をねがう中央区民の戦争展実行委員会

アヘン戦争から180年、日中戦争以来の中国の歴史、日中共同声明の意義、中国と米ソとの国際関係、現在の中国の経済的発展、という大きな流れの解説をお聞きし、中国の現在への関心を深めることができた。

日中国交正常化50年――中国近現代史から中国問題を考える

               井上久士さん(駿河台大学名誉教授、日本中国友好協会会長)
1972年9月25日、田中角栄首相が北京を訪れ、29日に周恩来総理らと「共同声明」に調印した。50周年に当たる今年、記念式典などがあるかどうか現時点では不明だが、わたしたちはわたしたちなりに意義と限界点を考えてみる必要がある。
1 日中国交正常化50周年
国交正常化には大きい問題が2つあった。ひとつは「戦争と平和」という問題だ。これにはさらに2つの論点がある。
●日中戦争の終結
日中国交正常化により、はじめて日本と中国は正式に戦争状態を終えた。共同声明の1項に「(日中の)不正常な状態は共同声明が発出される日に終了する」とある。日本は1951年に連合国とサンフランシスコ講和条約を締結したが、中国は講和条約に入っていなかった。そのあと日本は台湾に行った中華民国政府と日華平和条約(1952)を結び、戦争状態を終えた。しかし中華人民共和国は、日本が国家として承認していないから、戦争は終わっていない、共同声明の「不正常な状態」のままだった。
●戦争賠償の問題
もうひとつは戦争賠償の問題だ。日本は侵略国で、最後にポツダム宣言を受諾し無条件降伏した。
共同声明前文で「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」、1000万人もの中国人が死んだのだから「責任と反省」という言葉が出てくる。これがひとつ。それに対し5項で「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とある。
21世紀末、民間の中国人被害者がいくつも損害賠償請求訴訟を起こした。2007年最高裁はこの条項があるから「被害は受けただろうが、日本政府は賠償しない」と判決した。
わたしはこの2つの項目は対の関係、2つそろってひとつの役を果たすバーターの関係だと思う。しかし日本は反省せず「戦争した一端の責任は中国にもある」などといい「中国は賠償請求権を放棄している」などというと、中国の国民感情からすればとうてい納得できない
歴史をさかのぼれば日清戦争のとき、日本は清から下関条約で2万テールという賠償金を取った。当時の国家予算2年分に当たる。いまの価値でいうと200兆円にも達する。それを使い、日本は製鉄など産業革命、富国強兵を実現した。それと比べても中国が賠償放棄した意味は大きい。
●平和維持の決意
平和の問題で、日本と中国の間では当時平和五原則があった。主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵、平和共存などだ。こういう基礎のうえに恒久平和を構築する。また国連憲章にもあるように、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない」、中国と日本のこの平和という状態をずっと続けようという決意があった。
それから50年、日本と中国は直接戦火を交えずやってきた。50年前の共同声明により、これから仲よくやっていこうという基本的了解ができたのだから、歴史的に大きい意義がある。
●ひとつの中国
2つ目の大きい問題は「ひとつの中国」という原則だ。
ネックになったのは台湾だった。それまで日本にとって中国は台湾だった。日本が中華人民共和国と「正常な国家関係」をつくるとなると台湾はどうなるのか。中国はこの点は譲らなかった。台湾は中国の領土の一部に過ぎないとし、共同声明2項では「中華人民共和国は、中国を代表する唯一の合法的政府であることを承認する」、台湾は中国のひとつの省ということになった。
3項には「日本国政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言8項に基づく立場を堅持する」と書かれている。ポツダム宣言8項で日本の領土を定めている。またポツダム宣言はカイロ宣言(1943)を基礎にしており、「連合国は日本の侵略と戦っている日本が侵略して取ったところは返す、満州、台湾、澎湖島などは中国(中華民国)に返す」。そういう経緯があるので、中国は絶対に譲らない。
中国からすれば、清国の時代、もともと中国の土地だったのに日清戦争で取られその後中国に返還した。台湾には別の政権ができたが、しかしそれは国内問題だ。そのことにアメリカや日本がいろいろ言うべきではない、というのが中国の見解だ。
●50年前は歴史の転換点
50年前は、いまから思えば歴史の転換点だった。このとき日本政府台湾から大陸へと大きく外交政策を変えた。背景にはアメリカの動きがあった。アメリカは、前年4月日本で行われた世界卓球選手権のあと選手団が北京を訪問した(ピンポン外交)。7月には大統領補佐官キッシンジャーが極秘に北京を訪問し、帰国後ニクソンが訪中を発表した。
キッシンジャーの帰国後、ニクソンが訪中を発表した。日本は「中国封じ込め作戦」でアメリカにずっと従ってきたのに梯子を外され、佐藤栄作首相は青ざめた。
当時アメリカは長引くベトナム戦争を終わらせたいと考え、一方ソ連と冷戦中だったので中国を引きずり込みたいと考えた。
第二次大戦直後のアメリカの圧倒的な強さはこの時期にだんだんなくなっていた。72年2月ニクソンは訪中し、米中関係の正常化に向けて努力する上海コミュニケを発表した(ただし台湾問題があり正常化実現は数年先になった)。大きな政策転換を、共和党のニクソンが行った。
●中国国内でも転換点
当時、中国は文化大革命のさなかで、対外的には反米反ソだった。69年ウスリー江中州のダマンスキー島(珍宝島)事件という中ソ国境で軍事衝突事件が起こり、中国が負けた。当時中国では林彪が毛沢東の後継者に指名されたが、国務院と軍の間に対立が起こり、だんだん反米反ソ路線から親米反ソに傾いてきた。これをもとに林と毛の間に対立が生まれ、71年9月13日林彪はモンゴル上空で死亡した。中国内部は揺れていた時期だ。経済は周恩来ら国務院グループの力でなんとか安定を保っていた。

2 中国のトラウマと「中華民族の偉大な復興」
清の時代には、モンゴルやロシアの沿海州も中国領土だったので、領土は非常に大きかった。しかし近代になり、アヘン戦争(1840-42)以降領土を取られ、さまざまな不平等条約で痛めつけられプライドが傷ついていた。上海、天津など都市のなかの租界も生まれた。その悔しさがトラウマになった。
イギリス、フランス、ドイツ、ロシアのあと一番奥れて日本が出てきた。日本には武力で乱暴にやられた。その悔しさは感情だが、「その感情をやめろ」とは言えない。日本が侵略したのは事実だからだ。まず中国の人の悔しい気持ち、そしてなんとか頑張ろうと思っていることを、日本人は理解しておく必要がある。

3 抗日戦争を戦った中国の考え方
日中戦争を中国では抗日戦争という。日本ではニュース解説の人が「中国共産党は日本と戦ったことを金科玉条にし、それが彼らの根底にある」という。
しかしその当時中国共産党は野党で、日本と戦った中心は中国国民党だ。だから台湾の人は(いまは少し変わってきたが)中国愛国心が強い。
1931年9月の満州事変、6年後の盧溝橋事件が起こり日中全面戦争となった。
満州事変直後(1931.10)に国民党系の政治評論家・キョウ(「龍」の下に「共」)徳伯が「征倭論」を出版した。執筆したのは事変より前のはずだ。日本は物資が不足した小国なので長期戦は不可能だ。また日本の戦争は軍閥、大資本家の侵略戦争なので、いずれ人民の支持を得られなくなる。したがって持久戦で中国が勝利し得る。戦略としては、首都を捨て、日本軍を海岸線から内陸に誘導して補給線を断ち、撃滅する方法がある、というものだった。
その3年後の1934年蒋介石が「敵か友か 中日戦争の検討」という論文を書き「中国の武力は日本と比較にならないから、中国側は必ず大きな犠牲を払わなければならない。しかし弱さは強さでもある」、具体的には「首都を取られても中国は負けない。別の場所に移せばよい。中国には日本の26倍の領土と4億人の国民がいる。その全部を占領・支配することはできないだろう」「長期持久戦でやれば中国は負けない」というものだった。
その後日中戦争が始まり中国共産党の毛沢東は「持久戦論」(1938.5)で「防御の時期、反攻準備の時期、反攻の時期」の段階を経て、中国と同盟する国、たとえばアメリカ、ソ連、が増えてくるし、日本国内でも厭戦・反戦の動きが出て、いずれ勝利が可能と、述べた。
国民党も共産党も同じ考えだった。一方、日本は短期的には勝てたが、大きな絵が描けない。最終的には中国が勝った。ただ持久戦にはさまざまなマイナス面があった。たくさんの犠牲者が出たし、家が破壊された。中国国民の怒りは大きい

会場脇の展示より、日中戦争当時の新聞
4 「持久戦」的発想からの解放

戦争が終わり、国民党と共産党の内戦があり、中華人民共和国が1949年に成立した。1967年までは毛沢東の時代で。「抗日戦争勝利」という成功体験の時代だった。朝鮮戦争でアメリカに対し臨戦体制、台湾が福建省に攻めてくるという恐れがあり、60年代、文化大革命の時代にはソ連が敵になり、はじめは現代修正主義、次はソ連社会帝国主義といい、いつも敵が必要で臨戦体制をとっていた。そのため、自給自足の単位となる人民公社がある。
だから毛沢東の時代には暮らしはよくならなかった。いまは車もテレビも冷蔵庫もある。それが変わったのは70年代末、鄧小平がでてきた時代だ。「改革開放政策」が確立された背景には、いつか外国が攻めてくるのではないかといった「日中戦争の呪縛」があった。さすがに鄧小平の時代には「戦争は起きないだろう、しばらく起きない、起こしてはならない」と中国の国家指導者がだんだん考えるようになってきた。つまり毛沢東と鄧小平の重要な相違は、戦時体制から中国が離脱するか、という点にあった。だから工業も経済効率のよい沿海部に移した。また国営から民営企業へ、国家による経済統制から市場経済へ、自力更生から対外開放へと、経済も社会も変わった。軍隊も、日中戦争のころは敵を内陸に引き込むといっていたが、その後南方展開というようになった。いまの第一列島線、第二列島線という発想だ。中国は伝統的に陸軍が強かった。それを海軍、空軍を強化し、前方展開するように変わった。

5 離陸した中国
鄧小平の時代以降、80年代、90年代、21世紀と四十数年が過ぎ、アメリカと肩を並べるまでの経済大国になるに至った。そのうえで、鄧小平の時代に「しばらく戦争はないだろう」という状況は、変わるか、変わらないのか、いまの習近平の時代に変わってきたのかどうか。
米中対立はしばらく続くだろう。アメリカはしばらくやるつもりだ。いま名目GDPで2030年にアメリカは中国に抜かれると言われている。バイデンががんばっても、中国を押さえつけておくことはなかなか難しい。

おわりに 世界史の中の現在と未来
ゴールドマンサックスの2050年時点GDPの長期予測(2003年)で、1位中国(70兆ドル)、2位インド(38兆ドル)3位がアメリカ(37兆ドル)だ。アメリカがファーウェイやZTE(中興通訊)をいじめても、中国製部品なしでできるかというと、できないだろう。時間を少し遅らすことはできてもいずれそうなる。そのとき日本のGDPはブラジル、メキシコ、インドネシア(7兆ドル)にも抜かれ世界8位(6.6兆ドル)という予測だ。そういう時代はいずれ来る。
50年前ニクソンといっしょに訪中したチャス・フリーマン元米国防次官補は、50年後の米中関係を問われ「米中が建設的な関係を築くには20年はかかる。そのころまでに、中国は米国との競争ではるか前を走っているだろう(略)私たちは自分自身を再発見(略)」と語った(2021年10月朝日新聞Globe。アメリカにも冷静にみている人はいる。
経済力競争、軍備競争でなく、もっと新しい国際関係、人類共同体のような社会を、別の発想でつくるべきだ。日本はアメリカの「忠実な友人」なので、アメリカに付き従っているだろう。アメリカは現実的なところがあるから、いずれ中国との対立に見切りをつけ中国との協調に戻る日がくると思う。
そのとき日本は、またアメリカに見捨てられる。その前に日本政府がもう少し現実的に中国と向き合うそういう政治家がリーダーになってほしいと思う。

その後、40分近く質疑応答の時間があった。江沢民の今後のビジョン、日本の外交方針の欠陥、台湾「有事」問題への沖縄の人びとの不安など、多岐にわたった。
なかでも台湾問題への質疑が最も充実していた。台湾は、統治者が日本人、外省人と移り変わり、外省人対本省人(内省人)、国民党対民進党など複雑だ。現状、蔡英文政権は大陸とは「現状維持」の方針だ。台湾の人の命がかかっているから軽々な発言はできない。同様に日本も一触即発となれば沖縄の住民が危ない。だからわたしたちは、どんなことがあっても中国と戦争してはいけない、と締めくくった。

なお井上先生は「平頂山事件を考える――日本の侵略戦争の闇(新日本出版社 2022.8  1600円+税)を出版され、9月10日(土)午後、同じ月島社会教育会館で「平頂山事件90周年記念集会」を開催する予定とのことだった。

色鮮やかな花が描かれた絵手紙

☆「平和をねがう中央区民の戦争展」では、講演会場の三方の壁と休憩コーナーを使い、「一日本兵が撮った日中戦争――村瀬守保写真展」「平頂山事件って知ってますか?」(撫順近郊での中国人大量殺戮事件)、「月島を愛した反戦・自由律俳人 橋本夢道」「伊藤千代子について」「首都圏の米軍・自衛隊基地の実態」「絵手紙」などの展示が同時開催された。
また井上さんの講演のほか、白神優理子さん(弁護士)「日本国憲法は希望」の講演、「小林多喜二と築地」「俳句弾圧事件と橋本夢道」の報告など、盛りだくさんなイベントだった。
なかで、わたしは村瀬守保写真展の作品にショックを受けた。村瀬守保(1903-88)は1937年7月召集され天津、北京、上海、南京などを転戦した、非公式の写真班員だった(40年1月召集解除により帰国)。
とくに南京大虐殺直後に揚子江河岸に広がる死体の山をはじめてみたが、無惨な光景だった。キャプションに「大部分が平服の民間人」と書かれていた。また物売りの年寄りの屋外での取り調べと銃殺後の死体、軍直属の公設慰安所と裏町の私設慰安所前の路地など、戦争犯罪の写真も多数あった。
また絵手紙はウクライナの戦争が長引いているせいだと思うが、手描きの絵と文字から伝わる平和の暖かさとありがたさが例年以上に心に染みた。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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