東京駅八重洲口から10分、銀座線京橋駅または浅草線宝町から1分の都心に国立映画アーカイブがある。京橋のフィルムセンターと呼んでいた施設が、この4月国立映画アーカイブに変わったのだ。日本で6館目の国立美術館だそうだ。「映画のために誕生」「映画を残す、映画を活かす」をキャッチフレーズに「全ては映画のために」という国内最大のフィルムアーカイブだ。
ここには学生のころよく通った。一番は1976年年頭の〈開館5周年記念〉小津安二郎監督特集のときで、40日余りの上映日のうち20日近く通った。
入館したところに第一福宝館、旧日活本社など4枚の建物写真とともにこの建物の説明パネルが掲示されている。この場所は日活の前身4社(吉澤商店、Mパテー商会、横田商会、福宝堂)のうち福宝堂の映画館・第一福宝館があった場所で、1912(大正元)年以降は、京橋日活館、その後1931(昭和6)年から4階建ての日活本社となった。1952年、そういう由緒正しい場所に国立近代美術館が開館(日活本社は有楽町に移転)し、フィルムライブラリーが誕生した。
7階展示室の常設展「日本映画の歴史」はよくできていた。岩波書店の『日本映画史』(佐藤忠男 全4巻 1995)でも読んでいればよかったのだろうが、わたくしは知識の断片しか持ち合わせていないので、体系的な理解への道筋が見えたように思えた。「1 日本映画のはじまり 映画前史~1910年代」から「7 日本のアニメーション映画」まで7つのブロックに分けて解説・展示があった。とくに明治から、「第二次大戦後の黄金時代」(1945-1950年代)の時期がすばらしい。
「前史」は、1803年オランダの幻燈を江戸で上映したことに始まる。ルイ・リュミエールと文部省学芸官・中田俊造の珍しい記念写真もあった。
大手5社を中心に映画製作会社の系譜が掲示されていた。細かいところまでみると、自分とも少し縁があることがわかった。たとえば東宝の前身会社のひとつに京都のJ.O.スタヂオがあるが、その跡地は1946年にわたくしが就職した会社の工場用地になった。太秦には数社のスタジオがあったが、近隣の西山の竹藪でときどき時代劇のロケをやっていた。東映の東京撮影所(前身は太泉映畫)や東映動画は、高校生のころ近くが通学路だった。蒲田駅東口の松竹蒲田の跡地は、2012年に「梅ちゃん先生」のツアーのときに訪れた。区民ホールのエントランス付近には松竹橋の親柱がある。
「2 サイレント映画の黄金時代 1920年代」には、女優の採用やクローズアップの純映画劇運動を提唱した帰山(かえりやま)教正の監督第一作「生の輝き」(1919 主演・花柳はるみ)、村田実の「路上の霊魂」(1921)のスチール、衣笠貞之助「狂つた一頁」(1926)のフィルム(5分間の抜粋)と脚本原稿、撮影メモなど、名前しか知らなかった人名や映画がいくつも展示されていた。
「狂った一頁」(1926)のフィルム(5分間)と脚本原稿、撮影メモ
3 トーキー革命へ(1930年代)
「マダムと女房」(五所平之助 松竹1931)、「人生のお荷物」(五所平之助1936)、「若い人」(豊田四郎1937)、「限りなき前進」(内田吐夢1937)、「淑女は何を忘れたか」(小津安二郎1937)などのポスターが掲示されていた。おそらく戦前の映画黄金時代、都市文明の頂点の時期だろう。榎本健一、古川ロッパが活躍した時期だ。「若い人」のヒロイン・江波恵子を演じたのは市川春代だった。市川の名は井上ひさしの「きらめく星座」で「青空」を日本クリスタルで吹き込んだ歌手ということで覚えている。ユーチューブでその盤は出てこなかった。
田中絹代というと、わたくしにとっては「大学は出たけれど」(1929)や「落第はしたけれど」(1930)の可憐なスターだが、若いころは清水宏、島津保次郎、五所平之助らの映画のスターでもあったようだ。
「限りなき前進」の主役は江川宇礼雄だ。例によって小津の映画の話になるが「青春の夢いまいづこ」(1932)や「東京の女」(1933)に出ていた二枚目俳優で、なつかしい。
小津の「淑女は何を忘れたか」 左は戦後の「東京物語」(1953)と撮影台本
栗島すみ子はわたくしは小津の「淑女は何を忘れたか」(1937)の「麹町の夫人」役で飯田蝶子、吉川満子らと出演していたのををみただけだ。これはベテラン時代の作品だが、若いころのポートレートやブロマイドが展示されていた。
わたくしはほとんど見ていないのだが、日本のチャンバラ映画の「伝統」はしっかりしているようだ。1926年に「目玉の松ちゃん」尾上松之助(日活)が亡くなったあと、大河内傳次郎(日活→J.O.スタヂオ)、阪東妻三郎(マキノプロ→阪妻プロ)、嵐寛寿郎(マキノプロ→寛プロ→大映)、市川右太衛門(マキノ・プロ→右太プロ→松竹)、片岡千恵蔵(マキノ・プロ→千恵プロ→大映)、林長二郎(のちの長谷川一夫 松竹→東宝)の六大時代劇スターの時代が到来した。鞍馬天狗は観ていないが、「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977)で観た。
丹下左膳(大河内傳次郎)、鞍馬天狗(嵐寛寿郎)などチャンバラ映画のポスター
4 戦時下の日本映画(1930年代後半から1945年)
しかし時代は「戦時下」へと暗転する。1939年には映画法が制定され、映画人の登録制、事前検閲が当たり前となり、外国映画の制限やニュース映画の強制上映が行われる。「日本ニュース78号 三妃殿下傷痍軍人慰問所を御訪問ほか5本」や「支那事変後方記録 上海」(1938)や「満州映画」という雑誌(1937)が展示されていた。満州映画協会は甘粕正彦が理事長を務めていた。
5 第二次大戦後の黄金時代 1945年~1950年代
黒沢明の「羅生門」(1950)のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞のトロフィ、溝口健二の「西鶴一代女」(1952)、成瀬巳喜男の林芙美子原作「稲妻」(1952)や「浮雲」(1955)、木下恵介「カルメン故郷に帰る」(1951)、変ったところでは本多猪四郎の特撮映画「ゴジラ」(1954)、独立プロの今井正「にごりえ」(1953)、新藤兼人「裸の島」(1960)のポスターが並んでいた。
ただ「6 日本映画のひろがり 1960年代以降」は、監督1人にスチール1枚、たとえば山田洋次は「男はつらいよ」第1作(1969)、羽仁進は「初恋・地獄篇」(1968)、大島渚は「青春残酷物語」(1960)など38人分38枚のスチールが壁面に展示されているだけで、もの足りなかった。
「7 日本のアニメーション映画」は日本のアニメは優秀なので、1つのコーナーを割り振っていた。大藤信郎の影絵アニメ、東映動画の「白蛇伝」、岡本忠正の「キツネとモグラ」などの展示があった。
この常設展のパンフやカタログがないのは、いかにももったいないと思った。
企画展は「没後20年 旅する黒澤明」。「羅生門」「七人の侍」「椿三十郎など黒沢映画の海外でのポスター展だった。わたしは、なるほどなるほどと一回りしただけだが「面白い」という知人もいた。自分なりにイタリア、スウェーデン、ロシア、ポーランドなど国別比較をして、黒澤観・黒澤受容の違いや表現の比較をすると面白かったかもしれない。
「七人の侍」(1954)のイタリア(1955)と西ドイツ(1962)のポスター
ホールでの映画上映は6月に地下1階の小ホールで「戦時下の日本アニメ」、8月に2階の長瀬記念ホールOZUで「坊っちゃん」(丸山誠治 1953 東宝)を見た。坊っちゃんは、主演が、池部良の坊ちゃん、マドンナ・岡田茉莉子、赤シャツ・森繁久弥、お清・浦辺粂子と豪華な顔ぶれだった。ただマドンナと坊っちゃんとの青春映画になっており、マドンナと坊ちゃんの行く末がよくわからないせいか、私たちには「もうひとつ」だった。
アニメのほうは「桃太郎の海鷲」(1942)と「フクチャンの潜水艦」(1944)の2本立てだった。もちろん小学生向け「戦意高揚」映画だ。「フクチャンの潜水艦」は、南洋に行ったり北極海と思われる氷山の地域に行ったりでストーリーはよくわからなかったが、アニメとしての日本の技術力の高さが、とくによくわかる作品だった。
その他、ちらっと見ただけだが、4階図書室もキネマ旬報の大正8年から15年、1950年の復刊1号から全号、イメージフォーラムの1980年6月の創刊準備号から95年7月まで全号揃いなど、宝の山だ。何度でも行ってみたくなる「垂涎」の施設だった。
1階ロビーには、「人情紙風船」(東宝1937)、「都会交響楽」(日活1929)など名画ポスターが多数展示されていた
国立映画アーカイブ
住所:東京都中央区京橋3丁目7-6
電話:03-5777-8600
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
図書室は日曜、特別整理期間も休室
開館時間:11:00-18:30(入室は18:00まで、月末金曜のみ20:00閉館で19:30まで)
映画上映はこちらを参照
料金:上映 一般520円/高校・大学生・シニア310円/小・中学生100円/
障害者(付添者は原則1名まで)無料
☆定員:310名(各回入替制・全席自由席)
展示 一般250円/大学生130円/シニア・高校生以下及び18歳未満、障害者(付添者は原則1名まで)無料
☆20人以上の団体割引あり
ここには学生のころよく通った。一番は1976年年頭の〈開館5周年記念〉小津安二郎監督特集のときで、40日余りの上映日のうち20日近く通った。
入館したところに第一福宝館、旧日活本社など4枚の建物写真とともにこの建物の説明パネルが掲示されている。この場所は日活の前身4社(吉澤商店、Mパテー商会、横田商会、福宝堂)のうち福宝堂の映画館・第一福宝館があった場所で、1912(大正元)年以降は、京橋日活館、その後1931(昭和6)年から4階建ての日活本社となった。1952年、そういう由緒正しい場所に国立近代美術館が開館(日活本社は有楽町に移転)し、フィルムライブラリーが誕生した。
7階展示室の常設展「日本映画の歴史」はよくできていた。岩波書店の『日本映画史』(佐藤忠男 全4巻 1995)でも読んでいればよかったのだろうが、わたくしは知識の断片しか持ち合わせていないので、体系的な理解への道筋が見えたように思えた。「1 日本映画のはじまり 映画前史~1910年代」から「7 日本のアニメーション映画」まで7つのブロックに分けて解説・展示があった。とくに明治から、「第二次大戦後の黄金時代」(1945-1950年代)の時期がすばらしい。
「前史」は、1803年オランダの幻燈を江戸で上映したことに始まる。ルイ・リュミエールと文部省学芸官・中田俊造の珍しい記念写真もあった。
大手5社を中心に映画製作会社の系譜が掲示されていた。細かいところまでみると、自分とも少し縁があることがわかった。たとえば東宝の前身会社のひとつに京都のJ.O.スタヂオがあるが、その跡地は1946年にわたくしが就職した会社の工場用地になった。太秦には数社のスタジオがあったが、近隣の西山の竹藪でときどき時代劇のロケをやっていた。東映の東京撮影所(前身は太泉映畫)や東映動画は、高校生のころ近くが通学路だった。蒲田駅東口の松竹蒲田の跡地は、2012年に「梅ちゃん先生」のツアーのときに訪れた。区民ホールのエントランス付近には松竹橋の親柱がある。
「2 サイレント映画の黄金時代 1920年代」には、女優の採用やクローズアップの純映画劇運動を提唱した帰山(かえりやま)教正の監督第一作「生の輝き」(1919 主演・花柳はるみ)、村田実の「路上の霊魂」(1921)のスチール、衣笠貞之助「狂つた一頁」(1926)のフィルム(5分間の抜粋)と脚本原稿、撮影メモなど、名前しか知らなかった人名や映画がいくつも展示されていた。
「狂った一頁」(1926)のフィルム(5分間)と脚本原稿、撮影メモ
3 トーキー革命へ(1930年代)
「マダムと女房」(五所平之助 松竹1931)、「人生のお荷物」(五所平之助1936)、「若い人」(豊田四郎1937)、「限りなき前進」(内田吐夢1937)、「淑女は何を忘れたか」(小津安二郎1937)などのポスターが掲示されていた。おそらく戦前の映画黄金時代、都市文明の頂点の時期だろう。榎本健一、古川ロッパが活躍した時期だ。「若い人」のヒロイン・江波恵子を演じたのは市川春代だった。市川の名は井上ひさしの「きらめく星座」で「青空」を日本クリスタルで吹き込んだ歌手ということで覚えている。ユーチューブでその盤は出てこなかった。
田中絹代というと、わたくしにとっては「大学は出たけれど」(1929)や「落第はしたけれど」(1930)の可憐なスターだが、若いころは清水宏、島津保次郎、五所平之助らの映画のスターでもあったようだ。
「限りなき前進」の主役は江川宇礼雄だ。例によって小津の映画の話になるが「青春の夢いまいづこ」(1932)や「東京の女」(1933)に出ていた二枚目俳優で、なつかしい。
小津の「淑女は何を忘れたか」 左は戦後の「東京物語」(1953)と撮影台本
栗島すみ子はわたくしは小津の「淑女は何を忘れたか」(1937)の「麹町の夫人」役で飯田蝶子、吉川満子らと出演していたのををみただけだ。これはベテラン時代の作品だが、若いころのポートレートやブロマイドが展示されていた。
わたくしはほとんど見ていないのだが、日本のチャンバラ映画の「伝統」はしっかりしているようだ。1926年に「目玉の松ちゃん」尾上松之助(日活)が亡くなったあと、大河内傳次郎(日活→J.O.スタヂオ)、阪東妻三郎(マキノプロ→阪妻プロ)、嵐寛寿郎(マキノプロ→寛プロ→大映)、市川右太衛門(マキノ・プロ→右太プロ→松竹)、片岡千恵蔵(マキノ・プロ→千恵プロ→大映)、林長二郎(のちの長谷川一夫 松竹→東宝)の六大時代劇スターの時代が到来した。鞍馬天狗は観ていないが、「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977)で観た。
丹下左膳(大河内傳次郎)、鞍馬天狗(嵐寛寿郎)などチャンバラ映画のポスター
4 戦時下の日本映画(1930年代後半から1945年)
しかし時代は「戦時下」へと暗転する。1939年には映画法が制定され、映画人の登録制、事前検閲が当たり前となり、外国映画の制限やニュース映画の強制上映が行われる。「日本ニュース78号 三妃殿下傷痍軍人慰問所を御訪問ほか5本」や「支那事変後方記録 上海」(1938)や「満州映画」という雑誌(1937)が展示されていた。満州映画協会は甘粕正彦が理事長を務めていた。
5 第二次大戦後の黄金時代 1945年~1950年代
黒沢明の「羅生門」(1950)のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞のトロフィ、溝口健二の「西鶴一代女」(1952)、成瀬巳喜男の林芙美子原作「稲妻」(1952)や「浮雲」(1955)、木下恵介「カルメン故郷に帰る」(1951)、変ったところでは本多猪四郎の特撮映画「ゴジラ」(1954)、独立プロの今井正「にごりえ」(1953)、新藤兼人「裸の島」(1960)のポスターが並んでいた。
ただ「6 日本映画のひろがり 1960年代以降」は、監督1人にスチール1枚、たとえば山田洋次は「男はつらいよ」第1作(1969)、羽仁進は「初恋・地獄篇」(1968)、大島渚は「青春残酷物語」(1960)など38人分38枚のスチールが壁面に展示されているだけで、もの足りなかった。
「7 日本のアニメーション映画」は日本のアニメは優秀なので、1つのコーナーを割り振っていた。大藤信郎の影絵アニメ、東映動画の「白蛇伝」、岡本忠正の「キツネとモグラ」などの展示があった。
この常設展のパンフやカタログがないのは、いかにももったいないと思った。
企画展は「没後20年 旅する黒澤明」。「羅生門」「七人の侍」「椿三十郎など黒沢映画の海外でのポスター展だった。わたしは、なるほどなるほどと一回りしただけだが「面白い」という知人もいた。自分なりにイタリア、スウェーデン、ロシア、ポーランドなど国別比較をして、黒澤観・黒澤受容の違いや表現の比較をすると面白かったかもしれない。
「七人の侍」(1954)のイタリア(1955)と西ドイツ(1962)のポスター
ホールでの映画上映は6月に地下1階の小ホールで「戦時下の日本アニメ」、8月に2階の長瀬記念ホールOZUで「坊っちゃん」(丸山誠治 1953 東宝)を見た。坊っちゃんは、主演が、池部良の坊ちゃん、マドンナ・岡田茉莉子、赤シャツ・森繁久弥、お清・浦辺粂子と豪華な顔ぶれだった。ただマドンナと坊っちゃんとの青春映画になっており、マドンナと坊ちゃんの行く末がよくわからないせいか、私たちには「もうひとつ」だった。
アニメのほうは「桃太郎の海鷲」(1942)と「フクチャンの潜水艦」(1944)の2本立てだった。もちろん小学生向け「戦意高揚」映画だ。「フクチャンの潜水艦」は、南洋に行ったり北極海と思われる氷山の地域に行ったりでストーリーはよくわからなかったが、アニメとしての日本の技術力の高さが、とくによくわかる作品だった。
その他、ちらっと見ただけだが、4階図書室もキネマ旬報の大正8年から15年、1950年の復刊1号から全号、イメージフォーラムの1980年6月の創刊準備号から95年7月まで全号揃いなど、宝の山だ。何度でも行ってみたくなる「垂涎」の施設だった。
1階ロビーには、「人情紙風船」(東宝1937)、「都会交響楽」(日活1929)など名画ポスターが多数展示されていた
国立映画アーカイブ
住所:東京都中央区京橋3丁目7-6
電話:03-5777-8600
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
図書室は日曜、特別整理期間も休室
開館時間:11:00-18:30(入室は18:00まで、月末金曜のみ20:00閉館で19:30まで)
映画上映はこちらを参照
料金:上映 一般520円/高校・大学生・シニア310円/小・中学生100円/
障害者(付添者は原則1名まで)無料
☆定員:310名(各回入替制・全席自由席)
展示 一般250円/大学生130円/シニア・高校生以下及び18歳未満、障害者(付添者は原則1名まで)無料
☆20人以上の団体割引あり