フォルチュナ氏はもはや何の不安も持たなかった。
「よろしい!」彼は答えた。「忘れてしまったというわけだ……それはもっともなことだ。でもその家を見たら分かるね?」
「それならね、分かりますよ」
「そこまで私を乗せてって貰えるかね?」
「もちろんでさぁ、旦那、さぁこっちです。これがあっしの馬車で。乗ってくだはい」
フォルチュナ氏が乗り込み、御者が馬に一鞭当てるのを見届けてから、館の主人は事務所に戻った。
「あの男は警察のスパイに違いないよ」と彼は妻に言った。
「あたしもそう思うわ」
「今まで見たことのない顔だってのが妙だな……ま、多分新入りだろ」
フォルチュナ氏にとって、もう二度と足を踏み入れることなどない場所で人が自分のことをどう思おうと知ったことではなかった。重要なのは、彼がすべての情報を手中にしていることだ。今やその問題の婦人の身体的特徴まで手に入れた。自分が刻々と獲物に近づいていることを彼は感じていた。この上なく快適な馬車の中で手足を伸ばしながら、調査を始めたばかりのところで出くわしたこの幸先の良い前触れに彼は大いに気を良くしていた。そうこうするうちに馬車はベリー通りに到着し、やがて小さい小綺麗な家の前で止まった。御者は馬車のドアの前で身を屈めて言った。
「着きやしたよ、旦那」
フォルチュナ氏はゆっくりと歩道に降り立ち、御者の手に五フランを握らせた。御者の方は、命を救ってやった礼がこれっぽっちかよ、とぶつくさ言いながら遠ざかっていった。それはフォルチュナ氏の耳に入る筈もなく、彼は馬車から降りた地点にじっと立ったまま、目の前の家を一心に観察していた。
「ここがその女の住まいだな」彼は呟いた。「しかし俺は何の目的もなく訪ねるわけにもいくまい。彼女の名前も知らないままでは……。よし、情報集めと行くか」
五十歩ほど離れたところにワインを売っている店があった。彼はその店に入り、スグリのシロップを注文した。それをちびちびやりながら、出来るかぎりの無造作を装いつつ件の家を指さして尋ねた。
「あそこの素敵な家には誰が住んでいるんですかね?」
「マダム・ダルジュレですよ」とワイン商は答えた。10.12