「いま彼女は旅行用の大きな鞄を持っていたと仰ったではありませんか……ということは、こちらから歩いて出発したとは考えられません……馬車を頼んだ筈です……馬車を探しに行ったのは誰でしたか?……おたくで働いている誰かでしょう……その馬車の御者を見つけられれば正確な行き先が分かると思うのですが……」
一瞬、この館の主と妻は疑惑を一杯に孕んだ視線を交わし合った。確かにイジドール・フォルチュナ氏はどこに出しても恥ずかしくないような身なりをしていたが、パリ警視庁の男たちがどのような者にも変装する術を心得ているということは周知の事実であった。特にオンブールの館のような施設を経営している者には、警察がワラキアの伯爵やロシアの皇女たちの溜まり場からいろんな情報を収集したがっているということは自明であった。というようなわけで、この館の主人はすぐさま態度を決めた。
「貴方様のお考えは至極もっともでございます」と彼はフォルチュナ氏に言った。「このハントレーという奥様が出発の際馬車を雇われたことは明らかです。しかもおそらくは私どもの抱えている馬車でございましょう……。もしおよろしければ、こちらへ。御案内いたします」
彼はいそいそと立ち上がり、フォルチュナ氏を中庭に連れていった。そこでは五、六台の馬車が待機しており、御者たちがベンチに座りパイプを吹かしながらお喋りをしていた。
「お前たちの中で、昨日八時ごろ御婦人を乗せた者がいるかね?」
「どんな御婦人で?」
「年は三十から四十ぐらいの綺麗な奥方で、髪はブロンド、色白でふっくらしていて黒い服を着ていた人だ……ロシア革の旅行鞄を持っていた」
「ああ、それなら俺が乗せたよ」と一人が答えた。
フォルチュナ氏はその男の前に飛んで行きながら勢い込んで両手を広げたので、まるで彼の首っ玉にかじりつこうとしているかのように見えた。
「ああ、それは有難い!」彼は叫んだ。「君は私の命の恩人だ!」
相手の御者は大きく相好を崩した。命を助けたとあらば、たんまり心づけにありつけるだろうと思ったのだ。
「あっしは何をすればよろしいんで?」と彼は尋ねた。
「その奥方をどこまで送り届けたか教えてくれれば」
「ベリー通りでさ」
「何番地だ?」
「さぁ……そこまでは……」