この名前こそウィルキー氏の記憶に刻み込まれていたものだった。彼がごく幼い頃耳にした名前……。ジャック! そうだ、彼にお菓子や玩具を持って来てくれた男の名前がそれだった。その綺麗なアパルトマンに彼はほんの数日だけ滞在したのであった。というわけで彼は理解した。少なくとも理解したと思った。
「あ~あ、ああ、そういうことか!」 彼はゲラゲラと、呆けたようなそれでいて獰猛な笑い声を上げた。「こりゃいいや! こちらさんは愛人てわけか。これは言っておかねば、是非とも言っておか……」
彼は最後まで言うことが出来なかった。男爵が彼の胸ぐらを掴み、強靭な腕一本で服の上から彼を持ち上げるとマダム・ダルジュレの膝の前の床に投げつけるように彼を下ろし、怒鳴った。
「謝れ、悪ガキ! 許してくださいとお願いするんだ! さもないと……」
さもないと、の後に来るのは男爵の鉄拳らしかった。男爵は屠殺者のハンマーのような巨大な拳固をウィルキー氏の頭の上にかざしていた。
さすがのウィルキー氏も怖くなった。恐怖のあまり歯がカチカチと音を立てた。
「ゆ、許してください……」彼はもごもごと言った。
「もっとはっきり言え……もっと大きな声で……御母上が返答できるようにだ!」
母親の方は、可哀想に、何も耳に入らない様子だった。もう一時間も前から彼女の精神力は尋常ならざる試練を受け続け、今や限界に達していた。ついに肉体が先に降参し、彼女は消耗して肘掛け椅子に倒れ込み、何やらぶつぶつと呟いていた。おそらく息子を不憫がる言葉であろう……。男爵はしばらく待ったが、マダム・ダルジュレの目が固く閉じられたままなのを見て、ウィルキー氏に言った。
「これがお前のしでかしたことだ。よく見ろ」
そして先ほどと同じく、易々と彼の胸ぐらを掴んで立たせると、有無を言わさぬ調子ながらさっきよりは穏やかに言った。
「服の乱れを直すんだ。さっさと」
これは言われるまでもないことだった。トリゴー男爵が腕力に訴えるときは半端ではない。ウィルキー氏は男爵に締めつけられた際、服が滅茶苦茶になっていた。ネクタイはどこかに飛んで行き、シャツは皺だらけになり破れていた。ベルトのところまで開いている流行のチョッキは、今やボタン一つだけで惨めにぶら下がっていた。彼は一言も発さず、言われた通り身なりを整えようとしたが、手がブルブル震えていたためなかなか上手く行かなかった。やっと終えると、男爵が命令した。
「さぁ、行け! この家に二度と足を踏み入れるんじゃないぞ。分かったな。もう二度と!」3.28
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