エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2022-12-20 09:59:20 | 地獄の生活

「あら、それはちょっぴり残念」とマダム・ダルジュレは呟いたが、その口調は言葉の軽さとは裏腹であった。それから使用人達の興味津々の顔つきや憶測から逃げるように、彼女がいつも使っている私室に入って行った。

フォルチュナ氏は彼女のもとに名刺を残していった。つまりそれによって住所が分かるので、彼の家に行ってみるか、召使いを彼のもとに送るかすればよい。ごく簡単なことだった。彼女はすぐにも実行に移そうと思ったのだが、少し待った方が良い、と思い直した。一時間やそこら遅くなったとてどうということはなかろう。彼女は信頼を置いている使用人のジョバンを呼び、トリゴー男爵に会いに行くよう命じた。彼はすぐにも男爵を連れて来てくれるであろうから、男爵に相談すれば良い。彼ならば状況をより正確に見極め、どうするのが正しい判断か教えてくれるであろう……。

というわけで彼女は待つことにした。しかし、居ても立ってもいられないほどじりじりした気持ちで待っている間、考えれば考えるほど危険は大きく差し迫っているように思われた。フォルチュナ氏の行動を今改めて考えてみると、この抜け目のなさそうな人物は全く油断ならない相手であるように思えてきた。

彼は罠を張りに来たのであり、その罠に彼女はうかうかとはまり込んだのではないか。あの男がここにやって来たとき、単に彼女の素性を推測しただけではなかったのか。出し抜けにド・シャルース伯爵の死を告げられたので、彼女は思わず本心を露わにしてしまい、彼に確証を与えてしまった。

「ああ私が気をしっかり持って断固として否定すればよかったのに!」と彼女は呟いた。「強い意志を持って持ってさえいれば! 泣き崩れたりせずに、笑い飛ばせば良かったのに! あなたが何を言っているのかさっぱり分からない、と突っぱねれば、あの男は自分の間違いを悟ってすごすごと立ち去ったろうに……」

更にあの狡猾な何でも屋の男は、彼女がしっかり守ってきた秘密をすべて知っていると言ったが、そんなことはありそうもないではないか。

彼は相続財産を受け取るようにと彼女に懇願した。彼女自身のためでなくとも、別の誰かのために、と。それは一体誰なのか、と尋ねた時彼はマルグリット嬢と答えた。だが、彼が考えていたのはウィルキーに違いない!

ということはあの男、イジドール・フォルチュナと名乗るあの男は彼女に息子が一人いることを知っていたのだ……ひょっとしたらウィルキーを個人的に知っているのかもしれない……自分の目論見が不首尾に終わったことに腹を立て、あの男はウィルキーにすべて洗いざらいぶちまけに行くだろう……。12.20

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2-V-1

2022-12-16 16:44:48 | 地獄の生活

 

「今出て行ったあの男がお前の秘密を洩らしたら、お前は終わりだ!」

不吉な声が頭の中で叫んでいた。イジドール・フォルチュナ氏が彼女から出て行けと言われ、サロンのドアを後ろ手に閉めて出て行った後のことだ。その男は彼女がこの二十年間耳にすることもなく、自分で口にするのも憚ってきたド・シャルースという古い由緒ある名前で彼女を呼び、挨拶をしたのだった。皆にダルジュレと呼ばれている彼女がドュルタール・ド・シャルースの一族であることをその男は知っていたのだ。その自信に満ちた口調に彼女はへなへなとなった。

フォルチュナと名乗るその男は、自分の訪問の目的は私利私欲を求めてのものでは全くない、と断言した。ド・シャルース家に対し彼が行動を起こそうと考えた理由は、マルグリット嬢という若い娘の気の毒な身の上に同情したからというその一点のみにある、と彼は言い切った。しかしマダム・ダルジュレは過酷な人生経験を積み過ぎていたので、このような無私の申し出を信じることが出来なかった。この困難な時代、騎士道精神などというものはあまりにも絵空事すぎるということを彼女は身に染みて知っていた。

「あの男が来たのは」と彼女は呟いた。「私が死んだ兄の遺産を請求するべく名乗りを上げたら何らかの利益に与れると踏んだからに違いないわ……。あの男の懇願を撥ねつけたことで、もくろんでいた利益を私は彼から奪うことになってしまった。私はたった今敵を作ってしまったのよ……。こうなったらあの男は自分の知っていることをそこら中で言いふらすわ。ああ、あんな風に追い返してしまうなんて、私は馬鹿だった! 耳を傾けるふりをすべきだったのよ。どんな約束でもしてあの男を引き付けておくべきだった……」

彼女はここで言葉を止めた。ある希望が頭に浮かんだのだ。フォルチュナ氏はまださほど遠くには行っておるまい。誰かに後を追わせ、追いついたら彼を連れ戻させればよい。自分の失敗を完全には修復できなくとも、その被害を最小にすることは出来よう……。

彼女はすぐに階段を降り、召使と門番にたった今出て行った紳士の後を追いかけるよう命じた。主人は考え直したので、もう一度戻ってくださるようお願いせよ、と。二人は走って行き、彼女は中庭で待っていた。心は不安で締め付けられていた……。

だが、遅かった!十五分後に二人は相前後して戻ってきた。どこを探し回っても求める人物に似た人は見つからなかったという。通りに面した店の主人たちにも尋ねたが、彼を見たと言う者はいなかった。12.16

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2-IV-20

2022-12-13 09:14:59 | 地獄の生活

 「貴方が受け取る財産は、ド・シャルース伯爵の遺された遺産です。伯爵はあなたの伯父

なのです。推定では、総額八百万から一千万フランと言われています」

このときのウィルキー氏の痙攣的な身体の動きや目の異様な光を見れば、人は彼がこの途方もない幸運の衝撃に耐えきれず精神に異常をきたしたと思ったかもしれない。

「ああ僕がどこかの名門の生まれだということは分かっていたよ!」と彼は叫んだ。「ド・シャルース伯爵が僕の伯父だなんて! それじゃ随分高い地位じゃないですか!同級生の鼻を明かしてやれるぞ! 名刺の隅に王冠を印刷しよう。こりゃいいぞ!」

ド・コラルト氏は身振りで相手を黙らせた。

「いいですか、喜ぶのはちょっと待って」と彼は言った。「そう、確かに貴方の御母上はド・シャルース家の娘で、あなたはその方を通じて相続することになる。ただ……あまりがっかりさせたくはないのですが、名門の家系には不幸な例が多くあることは事実です。時に非常に頭の固い親族がいるという場合もあります。愛情が強すぎて理性を失ってしまう場合というのが……」

ド・コラルト氏は実際にそのような実例を知っていたわけではなかった。それでも、この受益者である青年に彼の母親がどんな人間であるかを教えるに際し、抵抗を感じていた。

「それで?」とウィルキー氏は先を促した。

「そうですね、あなたの御母上が二十歳の若い娘さんだったときに、父親の家から逃げ出したのです……ある男と恋仲になり駆け落ちしたのでした……やがて捨てられ、酷く惨めな境遇に陥りました。それでも生きていかねばならないでしょう? あなた方は食べるにも困っていた。彼女は名前を変え、現在ではリア・ダルジュレと名乗っています」

ウィルキー氏はこの名前を聞いて飛び上った。

「リア・ダルジュレ?」

そして大声で笑い出し、付け加えた。

「どうでもいいですよ、そんなこと。手に入れますよ、ちゃんとね!」

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2-IV-19

2022-12-12 10:03:53 | 地獄の生活

 ただ単に誰かが彼に罠を仕掛けたということではないのか? そもそも既に何らかの罠が仕掛けられていないというのが奇跡的だった。この垣間見えた危険があまりに大きく思えたのでマダム・ダルジュレに対する彼の計画を諦めようかとさえ思ったほどだった。この婦人を敵に回すのはあまりに無謀なことではなかろうか? 日曜は丸々躊躇に費やされた。手を引くのはごく簡単なことだ。なにかホラ話をでっち上げてウィルキーに告げればそれでしまいだ。しかし、少なく見積もっても五十万フランもの大金をそんな風にふいにしていいものか……。ひと財産、独立した暮らし、将来の安定……。いや駄目だ。金輪際そんなこと出来るものか、あまりにも大きな誘惑だ!

 というわけで月曜日十時頃、気持ちの昂ぶりに顔色も蒼ざめいつもより謹厳な面持ちで彼はウィルキーのもとを訪れた。

「単刀直入に」と彼はぶっきらぼうに切り出した。「話しましょう。貴殿が大金を手にする理由を。しかし、貴殿がその秘密を私から得たということが知られればそれはおそらく私の破滅となります。従って、貴殿に誓って貰わねばなりません、貴殿の……ええと名誉にかけて。いかなる状況であろうと、いかなる理由があろうと、私を決して裏切らない、と」

 ウィルキー氏は手を差し伸べ、厳粛な態度ではっきりと言った。

「誓います!」

「それで結構! これで私は安心できる……。このことは付け加えて申すまでもないでしょう。貴殿がもし口外するなら命はない、と……。よく御存知ですな、私の剣の腕前を? どうか、お忘れなきよう……」

 彼の威嚇に相手は震え上がった。

「もちろん人からは尋ねられることでしょう」とド・コラルト氏は言葉を続けた。「聞かれたらこう答えるのです。パターソン氏の友人がすべてを教えてくれた、と。さて、それでは契約書のサインです」

 ウィルキー氏は中味も検めずサインした。

「さてと」と彼は言った。「問題の……何百万という金だけど……相続財産の!」

 しかしド・コラルト氏は今一度契約書を検めた。それが終わると宣言した。12.12

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2-IV-18

2022-12-10 10:31:21 | 地獄の生活

 とは言え、彼の怒りは自分のもとに大金が転がり込んでくることを忘れさせるほどのものではなかった。彼にはまだしなければならないことが残っていた。ウィルキー氏にサインさせようとしている証書の合法性を確かめることである。

法律の専門家に相談すると、妥当な条件のもとに作成された契約は、もし裁判で争うことになった場合、非常に高い確率で証拠として受理されるであろうという答えが返って来た。しかもこの専門家はちょっとした案を提案してくれさえした。それはこの分野における傑作とも言うべきものだった……。

まだ正午にもなっていなかったので、彼には十分行動する時間があった。そのときになって彼はウィルキーに二日待てと言ったことを苦々しく後悔した。

「ウィルキーを見つけなければ」と彼は自分に言い聞かせた。

しかし彼がウィルキーを見つけたのは夜になってからだった。彼はカフェ・リッシュにおり、その状態たるや酷いものだった……。夕食の際に飲んだ二本のワインの所為ですっかり有頂天になり、自分が金持ちになったらあれをする、これをすると大声で並べ立てていた。

「手の付けられない阿呆だな!」 彼の怒りは心頭に達していた。「あいつを野放しにしておくとどんな馬鹿を言ったりしたりするか知れないぞ……躊躇しているときじゃない。やつに付いていなければ」

というわけで彼はブレバンの店まで着いて行き、ウィルキーが馬鹿な考えを起こしてヴィクトール・シュパンを上がって来させたときの彼は退屈で死にそうであった。しかしそこで繰り広げられた場面は彼を激しく動揺させるものだった。自分を知っていると言うこの若造は一体何者なのか。自分の過去を知り、自分にとって最もおぞましいあのポールという名前を自分に向かって投げつけたその男に彼は全く見覚えがなかった。しかし彼を震撼させるには十分であった。この若造はウィルキーが帽子を落としたとき何故その場にいて帽子を拾ったのか? 偶然か? いや、彼は偶然など信じなかった。では何故だ? 彼は『尾行して』いたのだ。つまり誰かをスパイしていたのだ。そうだ、そうに違いない。では誰を? この俺、コラルトをだ……。

彼のような人生を歩んでいると至る所で敵を作ることになり、確かに彼には山のように敵がいることは分かっていた。敵を威圧する手段としては彼の非凡な鉄面皮ぶり、それに決闘を辞さない剣客という評判だけだった。12.10

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