アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

2025-01-18 06:28:10 | ダンテス・ダイジの風光

◎欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言は、巻頭に格言1が置かれ、老子狂言全体の意義の説明をしているのだが、ここに紹介するのは、格言2。老子狂言を最初に手にした時は、単なるアフォリズム集か、風狂の覚者の片言隻句というのはこういうものかという程度で、およそ何もわかっちゃいなかった。

海外から戻ってきて、20年前にブログを始めて精神世界に関する理解が徐々に深まる中で、生の側から極める代表格が只管打坐であり、道元であり、老子であり、クリシュナムルティであることを知り、老子も改めて全文読んでみた。確かにダンテス・ダイジが老子の生まれ変わりと見た伊福部隆彦は、中年まで細君と不仲だったが、さるきっかけで老子的大悟をする。だがある日伊福部隆彦氏が、釈迦と背比べをしたら、自分の足は釈迦の胸のあたりでばたばたしているのに、釈迦の足ははるか地獄の底まで届いているらしく、全然底が見えなかったという逸話があり、生の側から窮めるといのはそういうことかという、妙な納得の仕方をしていた。

老子道徳経には、確かにスピリチュアルな段もあるが、決して多くはない。ただし、水平の悟りあるいは生の側から極めるといっても悟りそのものを比喩する場合、どうしっても神秘的な表現になることはやむをえないのだと思う。

 

『格言2

 

感情とそれからにじみ出す想像力は、欲望として以外にありえぬ個生命—人間にとって実に巨大な力を与えていた。

アトランテス文明の黄金時代は、人類の感情・想像・記憶を司さどるアストラル・パワーの開花の時だといってよい。

 

自我意識、合理的理性が今だ発達していないアトランテス人種は、合理的科学法則とはまったく異質の多くの夢を現実化することができた。しかし、人類の進化は、そこでとどまることをゆるさない。あらゆる個生命は、欲念を原動力として流動転変せざるを得ないからである。欲念相続には、完全満足なる到達点はあり得ないことは言うまでもないだろう。

 

欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。

現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。

 

現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさねばならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

 

だからこう言える。20世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して暴論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。

 

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当のやすらぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。

 

どうやら、欲念相続としての現代人類は、知性理性を「知恵」にまで進化させ、全人的統合を果たさねばならぬらしい。それも、いかなるルールも方法も保証もなしで・・・

私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる何ものかを。

あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

 

なぜなら

欲望の遊戯に終りはないだろうから

なぜなら

マーヤーのゲームに果てはないだろうから』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

人間の進化という観点で見れば、レムリア人は意欲人、アトランティス人は感情人。アトランティス人は、月ルナで象徴される感情パワー(アストラル・パワー)で、世界の全動力をまかなうツーオイ石を発明し、半重力装置でギザのピラミッドを積み上げるというテクノロジーを有していたが、現代科学では想像もつかないメカニズムのものだったのだろう。

 

一方現代人は、知性人であり、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている。その仕組みは、欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手であって、そこでの抑圧をジャンプ台として、欲望自体を滅尽するまで自我を極大化して、何かが起こるまで進む。

そこで大悟覚醒、道(タオ)、身心脱落が起こるのだが、その極点から再び再生して人間として生きる。禅の十牛図ならこれを入鄽垂手(にってんすいしゅ)と呼ぶ。この生き方が老子狂言なのだ。

生の側から極めれば、死の側もクリアできるので、必要に応じて超能力・霊能力も使えるが、それがメインではない。よって老子狂言にもオカルチックな、神秘生理学な描写が時々ある。

 

いかなるルールも方法も保証もなく冥想に取り組み、私は私に直面すれば、サムシングが起こるかもしれない。起こっているが気が付いていないだけかもしれない。

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