◎ジェイド・タブレット-08-05
◎地獄も越えて-05
◎言語を絶する不幸には滑稽が伴う
ヨブ記では、神を生きることの真剣味、求道の真剣味が徹底して問われている。
天国も地獄も吹き飛ぶイベントに冷静に真摯に向き合うには、真剣味がいる。
ダンテス・ダイジの示した「冥想者の日常的な態度」は以下のようなものであって、それには、真剣さ、人生への取り組みの真剣さの項目はない。
1.素直であること
2.正直であること
3.情熱的であること。
4.リラックスしていること
なぜ真剣さという項目がないかについては、これを示した弟子たちは既に真剣さがあるレベルに達していたからであって、殊更にそれを示す必要がなかったからではないかと思う。
【真剣さメモ】
1.シュンニャの皮を剥く。何回剥けるかどこまで剥けるかはその真剣味による。
2.クンダリーニのエネルギー・コードはその存在次元によって性質を変えるが、そこで順路を辿る意思・慣性は真剣さから来る。
3.人生で与えられた生きるエネルギーは人によって、今生で持ってきた分量には多寡がある。精神の成熟はそれに裏打ちされたところがある。
4.人は最終段階で、神にもオープンで悪魔にもオープンとなるが、その先の一歩を正しい方向に踏めるかどうかは真剣味による。
ダンテス・ダイジの著書「絶対無の戯れ」に現れた真剣味を並べてみる。
『あのどたん場の自己を忘れた果てた
真剣さでありたい』(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/窮鼠P23から引用)
『今までにおまえは
一瞬でも本気になったことがあるか
ありはしまい
なにしろおまえは神なんだから』
(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/おれは神P31から引用)
『身の切れるようなざん悔のみが
私に私を忘れさせる』
(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/ざん悔P36から引用)
『老婆は聖者に
正真正銘の真剣さでたずねた
「どうしたらこの地獄から解放されましょうか?」
聖者は素直に答えた。
そういうウソツキ!』
(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/ざん悔P59から引用)
※模範解釈を示すのは、本人の勢いを失わさせる効果があるものだ。(公案解答集など)
私の感じでは、真剣さは、最初は見切る力として作用し、中途では「不条理なる現実」を突破する力として作用し、それを通過した後は戯れる力として作用するように思う。
聖書のヨブ記は、篤信のヨブがこれでもかこれでもかという不幸に見舞われ続け、それでも神を信じ続けるのかみたいな話。そこに滑稽を見れる真剣さがあるのか。
『言語を絶する不幸には滑稽が伴う』と言ったのはダンテス・ダイジである。これは世間的には大いに誤解される言葉だが、考えてみるべきだろう。
非正規雇用4割の時代で、貧困に苦しむ世帯は、国民の主流とも言える時代となった。
それでも冥想を。