◎霊のある世界、神仏のある世界
(2021-08-28)
光源氏という懲りないプレイボーイに捨てられた女は数多いが、彼女らがすべて彼を怨みに思い、執念深く付け狙ったわけではない。六条御息所だけが執念深い女であり、その他の振られた女は都合の良い女だったという構成は、現代から見ればいかがなものか。
六条御息所は、物語の最初の方で光源氏に振られ、生霊が妊娠中の葵の上を悩ませ、葵の上は出産後急死。六条御息所は、死後も紫の上に死霊として出現し、光源氏に捨てられた恨み言を言い、紫の上を一旦危篤に陥らせる。
また光源氏と柏木との三角関係に苦慮した女三宮は、実は六条御息所の死霊が憑依しており、女三宮が出家する原因となった。
この世界観は、individualな個人霊というのが生前も死後も存続し、病気になるのも、死の原因になるのも、男女関係に影響を与えるのも霊だというもの。
もっとも同時代人の空海も病気の原因は霊のせいだという世界観を否定していないので、源氏物語は、まさにそういう世界観の産物である。
出口王仁三郎も、『本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。』(玉鏡/流行性感冒)と述べ、同様の世界観に生きている。
今、われわれは、新型コロナはワクチンで重症化を防ぐことができるなどという霊とは無縁の世界観に生きている。
ひと口で世界観の相違というが、我々は飛行機に乗って海外に降り立てば、そこに全く異なる世界観の人物が全く異なる世界観で生きていることを感じるものだ。
霊の有無の世界観の相違だが、今本当に問題なのは、神仏があるとする世界観、神仏がないとする世界観のことである。時代はまさに神仏がないとする世界観の底の時代にあり、きちんと神仏があるとする世界観に反転できるかどうかが問われている。
それは他人のひとごとではなく、自分が反転できるかどうかということなのだ。