アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

六条御息所と世界の見方

2024-03-31 16:04:04 | 密教neo

◎霊のある世界、神仏のある世界

(2021-08-28)

 

光源氏という懲りないプレイボーイに捨てられた女は数多いが、彼女らがすべて彼を怨みに思い、執念深く付け狙ったわけではない。六条御息所だけが執念深い女であり、その他の振られた女は都合の良い女だったという構成は、現代から見ればいかがなものか。

六条御息所は、物語の最初の方で光源氏に振られ、生霊が妊娠中の葵の上を悩ませ、葵の上は出産後急死。六条御息所は、死後も紫の上に死霊として出現し、光源氏に捨てられた恨み言を言い、紫の上を一旦危篤に陥らせる。

また光源氏と柏木との三角関係に苦慮した女三宮は、実は六条御息所の死霊が憑依しており、女三宮が出家する原因となった。

この世界観は、individualな個人霊というのが生前も死後も存続し、病気になるのも、死の原因になるのも、男女関係に影響を与えるのも霊だというもの。

もっとも同時代人の空海も病気の原因は霊のせいだという世界観を否定していないので、源氏物語は、まさにそういう世界観の産物である。

出口王仁三郎も、『本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。』(玉鏡/流行性感冒)と述べ、同様の世界観に生きている。

今、われわれは、新型コロナはワクチンで重症化を防ぐことができるなどという霊とは無縁の世界観に生きている。

ひと口で世界観の相違というが、我々は飛行機に乗って海外に降り立てば、そこに全く異なる世界観の人物が全く異なる世界観で生きていることを感じるものだ。

霊の有無の世界観の相違だが、今本当に問題なのは、神仏があるとする世界観、神仏がないとする世界観のことである。時代はまさに神仏がないとする世界観の底の時代にあり、きちんと神仏があるとする世界観に反転できるかどうかが問われている。

それは他人のひとごとではなく、自分が反転できるかどうかということなのだ。

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インドのライフ・サイクル、ライフ・プラン

2024-03-31 06:37:57 | 人と神の「実際のところ」

◎エネルギー蓄積により悟り、その後世俗生活を生きる

 

冥想が次の新時代の鍵であることがわかったとしても、日々の冥想習慣の先に大悟覚醒が起きなければならない。アメリカのように孤独に禅メディテーションを坐るはめにならないように、インドでは古来から冥想により神に至るライフ・サイクル、ライフ・プランが描かれている。

それは、人生を25年づつ4回の段階(アシュラマ)に区切るもの。

0歳から25歳までの時期は、人が世帯主となった時に、生のすべての快楽を深く体験できる準備として、エネルギーを創造し、蓄積することを目的とする。

次の50歳までは、蓄積したエネルギーにより、欲望を全面的に経験することで、その欲望から自由になり、この世の生の頂きと深みに触れる時期。生の快楽を目いっぱいトータルに体験する。この時期は世俗生活を送り、激情にひたるべき時期。

 

たとえば、現代は、かつてないほど、セックスがオープンに行われる時代だが、真に性的に満足している男女は少ない。

なぜなら行為以前に、セックスのためのエネルギーと努力が浪費されているからである。だが、そういう状態では、真理に向かうエネルギー、神に向かうエネルギーは十分に蓄積されないままで終わる。

楽しめなかった経験への欲求を残してはならない。そこで俗世の快楽の無益さをとことん思い知る。この時期の人は強くなければならず、弱い人では自分の激情、欲望を体験し尽くして、それから自由になることができない。

次の75歳までは、家庭生活を送りつつ成人した子供たちに生活上の指導を行うが、実際には森に入らないが、森に入って冥想生活を送ることを念頭に置く。

次の100歳まででようやく森に入って冥想に専念する。

うまく老人になったケースで、真に円熟した老人は、平和な美しい精神状態を醸し出す。一方肉体は老いても心はせわしなく、落ち着きなく、気短な老人の方が多いのも現実。

(以上参照:私の愛するインド/OSHO/市民出版社P66-73)

 

冥想により神に至るということで言えば、これでは、75歳まで悟りを開けないということで、この危機の時代においては世界がつぶれてしまいそうなライフ・プランである。

次の至福千年の時代では、思春期に見神見仏見性が体験され、青年期には、大悟覚醒を起こし、人は青年期以降悟りを持って社会生活を送るというのがスタンダードになるようなので、このインドのライフ・サイクルはのんびりしすぎなように思う。

若い時期はせっかちで興奮しやすいが、それでも冥想を続けつつ社会生活をやっていくしかあるまい。インド人は、人生は百年あって四期だなどと説くが、クンダリーニ・ヨーガには、大悟覚醒の後、肉体死から復活して社会生活を送るビジョンがない。だから最後の25年は森で冥想生活などと説いて平気である。インドの冥想には、悟りを持って世俗生活を生きることが想定されていないようである。

その点、禅の十牛図では、悟りを持って世俗生活を生きることがしっかり出されており、インドよりはるかに生の側から極めるという点では真摯である。禅が残る日本の方が「悟りをもって社会生活を営む」スタイルがあると言う点では、健全だと思う。

現代は、エネルギーを、ゲーム、ギャンブル、飲酒、セックス、エロ、広義のマインド・コントロール、生業で消費されがちであり、ますます難しい時代になっている。

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