◎ジェイド・タブレット-09-03
◎コーザル体・完全人・両性具有-03
◎神秘と逆説、そして絶対的自由
宗教学者のミルチャ・エリアーデは、第五身体コーザル体の位置づけを、神と悪魔が友人同士だとか、兄弟などの近親だとかいう、中央アジアや南東ヨーロッパの開闢神話でのエピソードに出て来る理由から、極めて正確に見ている。つまりコーザル体は、メンタル体以下での二元対立を越えたところに置かれるという見解なのである。
それは、生活者として日々苦労しまくっている人間には許しがたいことだが、『善』と『悪』には近親関係があるらしいなどと控えめに表現されるということである。
その前提として、まず語らなければならないのは、人間は常に天国的なものを目指して一挙手一投足を進めていかなければならないということ。それは疑問の余地はないが、最高に不壊なる天国的なものにほとんどコンタクトしようとする寸前に、なぜだか悪魔が現れる。イエスの40日の荒野修行でもそうだったし、釈迦の成道の直前もそうだった。北欧神話でもトリックスターであるロキは、アスガルドという天国の生活に何の不満があるのか、神々滅亡の遠因となる事件を引き起こしてしまう。『善』と『悪』、天国と地獄、この二元を越えないと、コーザル体には届かない。
イランのズルヴァンという主神の下に善の神アフラマズダと悪の神アーリマンがペアで発生したこともその一例。
エリアーデは以下の文章で、コーザル体での『反対の一致ないし全体性の神秘』が、もっぱら神秘と逆説として表現され、その完全性は、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されることも観察している。
コーザル体は、完璧な全体性ではないが、ある種の全体性ではあるのだ。
『反対の一致の前史
宗教史家は、反対の一致ないし全体性の神秘を、原初の「統一」の分裂によって「創造」を説明している宇宙開闢説の中のみならず究極の実在、神性の根源(Grund)にかかわるシンボル、理論、信仰の中にも見出すことができる。さらにそれは人間の行動の変換と諸価値の混乱とを生じさせる狂燥的儀礼の中や、対立物の結合の神秘的技法の中、あるいは両性具有の神話と両性具有化の儀礼の中などにも見出される。一般には、これら神話、儀礼、信仰は、次のことを人間に想起させることを目的としている。
すなわち、
究極の実在、聖性、神性は、人間の理性的理解の可能性を超えていること、
根源というものは、もっぱら神秘と逆説として把握されるということ、
神的完全性は質と徳の総和としてではなく、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されるということ、
神性、絶対、超越は存在の特定な様式も、偶然的状況をも構成していないがゆえに、相対的、直接的な人間とは質的に区別されるということ、こうしたことを想起させるのである。
一言でいえば反対の一致を内包するこれらの神話、儀礼、理論が人間に教えることは、神もしくは究極の実在を把捉する最上の方法は、たとえしばらくの間といえども、直接的な体験によって神性を思考したり、想像したりすることを放棄することだということである。というのも、そのような体験は、分裂と緊張とを知覚するだけなのである。』
(エリアーデ著作集第一巻悪魔と両性具有/ミルチャ・エリアーデ/せりか書房P107から引用)
エリアーデは、最後の一文『直接的な体験によって神性を思考したり、想像したりすることを放棄すること』で、冥想の可能性の一部を否定しているが、冥想の世界では、語られなかったり、記述されなかったりすることは、少なくないものだ。