アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOのコーザル体

2024-03-18 03:27:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-10

◎コーザル体・完全人・両性具有-10

◎夢と現実は一つで、至福だけがある

 

コーザル体(第五身体)を器質面・形状面から説明しているのが、OSHOバグワン。しかし、コーザル体は我ら常識的社会人の日常生活には全然登場してこない(かのように見える)ので、その説明だけでは、まずピンとは来ない。

コーザル体にあっては、無思考が始まり、言葉を介さないコミュニケーションが可能であり、男女の区別がなくなり、自他の区別も問題なくなる・・・・・とくればますます日常感覚ではとらえられないが、とどめに、ここでは夢と現実は一つになり、コーザル体には至福しかないと打たれると、混乱するばかりである。

まずコーザル体にあっては、生命は息のように中に入っては出ていく。入息が生、出息が死のように。

魂はコーザル体で自由を経験する。これに対して天国と地獄はメンタル体での経験である。

(故に解脱(モクシャ)はコーザル体での経験と彼は言うが、それはもはや経験ではなく、「体験とは言えない体験」に近いのではないか。)

メンタル体以前の睡眠状態は、いわば夢遊病だ。それに対してコーザル体では睡眠状態は「目覚め」だ(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P182-183による)。おそらく、「眠っている間も覚醒している」というインドでよく言われる状態は、コーザル体のことなのだろう。

コーザル体は、第五次元だが、「私は在る」という感覚のうち、ここでは「私=エゴ」と「在る」という感覚が分離する。ここで次のボディに進むには、「私=エゴ」が死に「在る」が残る。(上掲書P187-188による)

というのは、エゴとは他人に対する要求であって、エゴは常に他人との対比で勝とうとするが、コーザル体では、エゴがないので、もはや他者もおらず、もうどんな競争もないからである。(上掲書P359による)

こうして、ここには至福しかなくなる。『痛みも喜びもなく束縛も悲しみもない』(上掲書P358から引用)。

コーザル体には、メンタル体と同様に思考の波動がある。その他にコーザル体には、実存の波動がある。このエネルギーの波動は、人の知り得るエネルギーの中で最も微妙微細なるものである。

そのため、自分自身が騒々しい思考で一杯になっているとこの精妙な波動を見逃してしまう。(上掲書P257-258による)

(昨今のスマホアプリなどはこの意味で、危険極まりない。人の覚醒へ向かうチャンスを極小化するという意味において。)

完全な無思考はコーザル体で達成される。(上掲書P400による)ここで人は思考を起こすも起こさないも思いのままとなり、ここで人は自分自身の主になる。(上掲書P407による)これぞウパニシャッドで言うところの独存である。

『第五身体は人間として最も可能なものの頂上だ。第五身体は個体性の頂点、愛の、慈悲の、価値あるものすべての頂点だ。』(秘教の心理学/OSHO/メルクマール社P168から引用)

二人が無思考で、そばに居れば、実存のレベルでコミュニュケーションが起こる。これは言葉を介さない以心伝心である。猫は既に無思考である。

ここから先は言葉のない世界が始まる。第六身体は、まったく言葉がない世界。

※新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭『初めに言葉ありき』はどういう意図で書いたのか、考えさせられるところである。

 

コーザル体で夢と現実はひとつになる。(秘教の心理学p137)

このようにコーザル体では、およそ現代人の意識生活、社会通念、社会常識とはまったくかけ離れた世界が展開してるが、これこそ実は真実により近い感覚であり、存在の根っこなのだ。

 

蛇足だが、OSHOバグワンは、クンダリーニ上昇における各ボディの死のメカニズムすら知悉している。曰く、

『第七身体に入るとそれまでの6つの身体は滅びる』(前掲書p471)と。

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