◎ジェイド・タブレット-外典-10-4
◎二位一体
キリスト教では、父なる神と子なるイエス・キリストがいて、さらに聖霊があって、三位一体の構成要素である。しかし三つの神々ではなく、唯一の神を主張すると同時に他の多くの神々を否定する。この「他の多くの神々」にあたる部分の大方が太母なのだが、これを否定していることで、三位一体と自称しているが実質は二位一体と評価されることがある(ケン・ウィルバーも二位一体と評す)。
そして聖霊といえば、キリスト教の専売特許のようだが、さにあらず。
まず、旧約聖書。
創世記7章では、神は土のちりで人を造り、命の息(聖霊)をその鼻に吹きいれられて、生きた者となった。また聖母マリアは聖霊によって身重になった。
そして新約聖書。
1.ヨハネによる福音書14章『父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』
2.同3章『神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。』
3.同20章『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』
4.マタイによる福音書12章『人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』
こうして並べてみると、聖霊とは神の属性である絶対善を有して活躍している様子。そして人間にとって、聖霊は人間の本質のようでもあり、高級神霊のサポートみたいでもある。
さて出口王仁三郎は水鏡で、『キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。』と言っている。
出口王仁三郎は、聖霊が一位、子たる人間が二位で、二位一体と見ているのだろう。一般的な三位一体モデルというものがあるとすれば、無形無相の神(ニルヴァーナ)が父で、母は現象面のシンボル(アートマン)、そして人間の三位一体ということになるだろう。
こうして見てみると、聖霊は無形無相の反対物としての現象の総体の主要部のことを言っているようであり、無形無相の神の「有の側の働き」のことも言っているようでもあるから、「父と子はあっても母がない」という言い方になるのだろうか。
聖霊とは人間でいえば人間の精神を貫く神的な要素のこと。聖霊を人間が受けるとは見神に相当するのだろう。