◎ジェイド・タブレット-08-06
◎地獄も越えて-06
◎興味を持っている人たちは揺るがない
昔、悟りが起きる時、呼吸停止、心拍停止が起きると言う話(ダンテス・ダイジによる)を知って、そんなとんでもないことをしなければ悟りは得られないのかと思い、非常に驚いたことを記憶している。
悟りに達する人の割合について、
1.肉体死してもほとんど悟らない。この点で悟りに達する人(ニルヴァーナとの合一、神人合一、身心脱落)の比率は極く少ない。これは、肉体死に際して、悟るための準備ができているかどうかということが必要条件になっているが、その条件をクリアしている人がとても少ないことに由来する。
2.悟りを得た人のうち9割は即座に死する。首尾よく悟っても、その悟りを肉体で味わうこともできない人が9割ということになる。(出典:神秘家の道/OSHO/市民出版社P487)
3.さらに悟りを得た時に生き残った1割のうち、9割が残りの一生を沈黙に留まり、一割だけが起こったことを語り得る。その理由は、一般的には真理は語れないからだとされているが、実は悟りの際の衝撃で大脳が機能しなくなるから。(出典:上掲書P487-488)
なおOSHOバグワンの説では、イエスは、埋葬からの復活後、何十年か生きたが、その間一生沈黙にとどまったという説をとっている。イエスは十字架上で大悟したが、大脳が破壊されて沈黙に止まった方だと言っているのだ。
4.これは余談に近いが、悟りの後に語る能力を温存できた1割の人のさらに1割だけが導師になれるという。導師とは、彼の話を聞くだけで人が変容し、新たな生を与えることのできる人。これは単に教義を教えることのできる教師とは異なる。OSHOバグワンは、そのような導師の例として仏弟子シャーリプッタを挙げている。(出典:上掲書P489-491)
さて、冥想修行は悟りに堪える肉体を準備することにあるとも言われる。つまり悟り時の衝撃に堪え得る肉体を作るということでもある。
それはさておき、一生あるいは何生かかけて悟りに堪える肉体を準備できたとする。だが、悟りの瞬間に即死するのであれば、死んだら悟りがどのようなものか、味わったり、見たり、感じたりできないのでは、悟りを目指す意味がわからないと思う人も多いと思う。
OSHOバグワンは、それについて、
『興味がない人たちが興味を持つようにはならないし、また興味を持っている人たちは、どんな真理によっても邪魔されるはずはないからだ。そして実際、その人たちは、そのことを前もって知っておいた方がいいだろう。』(上掲書p488から引用)
真剣味が問題になるのである。
イエスの十二弟子のひとりだったペテロは、十字架にかかる直前の最後の晩餐でイエスや他の弟子を前にして、「私だけは決して裏切らない」と啖呵を切るが、イエスから「鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言う」と予言され、大祭司カイファの庭で、三人の人物からあなたはイエスの弟子ではないかと問われたが、その都度しらばっくれた。だがそれはペテロが準備できていなかったからであり、後にペテロは準備ができ十字架にかかって殉教した。ペテロは初代ローマ教皇になった。準備ができるのを待たなくてはならないということはある。
道教の魏伯陽は、弟子三人とともに山に入り神丹を作った。神丹を飲ませた犬が即死し、魏伯陽も即死した。弟子の一人は神丹を飲んで即死したが、弟子二人は飲まずに帰宅した。という故事がある。魏伯陽と神丹を飲んだ弟子は、後に蘇生して悟りを開いた。飲まずに帰宅した弟子は準備ができていなかったのだ。
無用の用がわかるということも準備のうち。
イエスも釈迦も命知らずだったが、永遠の命を求めて冥想修行したのだ。
瞑想は無用の用である。瞑想は何の役にもたたないが、瞑想それ自体があるということはある。それを無用の用と謂う。最近の98%以上の人々の頭は、あまりにも実利志向になっていて、必要性思考になっていて、闇雲に結果を求める。結果ゼロ、あるいはメリットがないことが何か悪いことであるかのような気まずさがそこに漂う。
ところが人は死から出て死に帰って行く。死があっての生だが、死は無用の用。また人の命は地球よりも重いが、世界は、君のために存在しているわけでなく、君がいようといまいと何の変りもないというのも厳然たる事実。それが生と死の有用無用。
道元が、弟子の質問に答えて、只管打坐は、何も得るところもなく、何も悟ることもないがそれでも坐るのだとしている。無用の用である。