2.覚者の生きる世界
そこで認識を再確認しておかなければならないのは、窮極(仏、神、宇宙意識、なにもかもなし)と一体化した体験を持たない方が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、そのことを実証する体験を持たないので、嘘になる。他方窮極と一体化した体験のある方、すなわち覚者が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、絶対の真実であるという点である。
それはなぜかというと、悟ってないこちら側から見れば、その違いは、『仏と合一する体験の有無』の違いがあると見えるが、一方覚者の側から見れば、覚者と普通の人は、違いなどなく全く同じ世界を生きているからである。
十牛図は一つながりだけれど、生きている世界ということで言えば、八番目の『人牛倶忘』からは、覚者側の世界に変わると考えられる。仏と自分が一体になった世界に変わるのである。
兎角心理学者は、これを変性意識とか、心理現象として見たがるが、心理ではなく、本当に別の世界に生きている。
最初は発心に始まり、第三段階で見仏し、第八段階で悟りを開き、運よく生還すれば第九段階以降は生き仏として生きる。なお禅の発想からすれば、悟りに中間段階はなく本来第八段階の一円相だけが評価される。
なお、覚者は別の世界を生きていますという歌には、次のようなものがある。この歌では、自分は仏であり、個人という自分はなく、悪事はできないと言っている。普通の人は、自分は仏だなどとは思わないし、個人だし、悪事も時々する。
①身の業の つきはてぬれば 何もなし
かりにほとけといふばかりなり
(我が身のカルマが尽きてしまえば何もない。カルマのなくなった我が身をかりそめに仏というだけのことである。)
②本来のものとなりたるしるしには
をかす事なきみのとがとしれ
(本来の者となった証拠は、身の咎(悪行)を犯す事がなくなるものと知りなさい。)
③死して後を仏と人やおもふらん
いきながらなき身をしらずして
(死んだ後に仏となると人は思うらしい。生きながら、すでに実は自分は無いことを知らないで)
以上三首とも至道無難(江戸時代初期の坊さん)