◎出口王仁三郎のモンゴル行き
出口王仁三郎のモンゴル特別視は、彼の独特のモンゴル観、アジア観、素盞嗚(スサノオ)観なくして理解し難い。およそこの150年程度の歴史でモンゴルを理解しても出口王仁三郎のモンゴル脱出のことや笹目秀和のモンゴル人脈への献身の理由などはわからなかったのである。
まして、「評伝 出口王仁三郎/村上 重良/ 三省堂」に出口王仁三郎のモンゴル行と軍部のつながりの経緯が詳しいといっても、ご神業としてのモンゴル行の意義は測り知れなかった。
以下の二つの文を見れば、出口王仁三郎は、大峠での地殻変動後のアジア全域を見て、その上でモンゴルがやがて世界の中心になることを幻視していたのだろうと思う。小は日本のモンゴルへの西遷ということも暗示しているが、誰もが神を知り、神を生きる時代に、地球の神業の中心がそれまでの日本からモンゴルに移ることについてなにほどの感慨はあるだろうが、それは大きな問題ではないのだろう。その時すでにみろくの世、至福千年は実現しているのだから。
『亜細亜大陸と素尊の御職掌
神典に云ふ葦原の国とは、スエズ運河以東の亜細亜大陸を云ふのである。ゆゑにその神典の意味から云ひ、また太古の歴史から云へば日本国である。三韓のことを「根の堅洲国」とも云ふ。新羅、高麗、百済、ミマナ等のことであるが、これには今の蒙古あたりは全部包含されて居たのである。
また出雲の国に出雲朝廷と云ふものがあつて、凡てを統治されて居つたのである。
一体この亜細亜即ち葦原は伊邪那美尊様が領有されて居たのであつて、黄泉国と云ふのは、印度、支那、トルキスタン、大平洋中の「ム」国等の全部を総称して居た。それが伊邪那美尊様がかくれ給うたのち素盞嗚尊様が継承されたのであつたので、その後は亜細亜は素盞嗚尊様の知し召し給ふ国となつたのである。素盞嗚と云ふ言霊は、世界と云ふ意味にもなる。また武勇の意味もあり、大海原といふ意義もある如く、その御神名が既に御職掌を表はして居る。それで素盞嗚尊様の御神業は亜細亜の大陸にある。
併しながら日の本の国が立派に確立されなくてはいけない。自分が蒙古に入つたのも、また紅卍字会と握手したのも、皆意義のあることで、大神業の今後にあることを思ふべきである。
『昭和』の雑誌に次のやうな歌を出して置いた。充分考へて見るべきである。
亜細亜とは葦原の意義あし原は
我が日の本の国名なりけり
満蒙支那神代の日本の領土なり
とり返すべき時いたりつつ
大蒙古は昔の日本の領地なり
回復するは今人の義務
時は今我が国民は建国の
皇謨により活動すべき秋
和光同塵政策をとりし我が国は
旗幟を鮮明にすべき時なり』
(玉鏡/出口王仁三郎から引用)
さらに
『特に我日本は神代に於ては渤海湾からゴビの沙漠より新彊まで海が続き、日本海が殆ど瀬戸内海の如きもので、小舟で交通が出来たのである。それがために日本が全アジアを支配してゐたのであり、又蒙古の大中心にまで大きな海が入りこんでをつたので気候が暖和であり、今日の如く寒冷荒涼の地ではなかつた。その時分には非常に此のアジア方面を扼して了つてゐたから、他の国からアジア(アジアとは葦原の国のことで、日本を意味す)をどうすることも出来なかつたが、現在では日本海の島々が沈没して、僅に壱岐、対馬、佐渡の核心だけが残り、津軽海峡を距てて四方環海の国なつて了つたのである。それがために交通が出来なくなり、年処を経るに従つてアジアの統一が出来なくなり、言語風俗等も変つて了つて、蒙古や支那のことは分らなくなつて了つたのである。』
(出口王仁三郎全集 第5巻 言霊解・其他/国防と国民の覚悟/出口王仁三郎から引用)
出口王仁三郎の蒙古行は、軍部の支援による単なるパフォーマンスと見ると誤る。新時代、至福千年へ向けての型出し神業だったのである。一行は、一旦死んで生還したが、その後出口王仁三郎は、生きているのか死んでいるのか自分でもわからないことがあったというのは意味深長である。神を知るというのは、そういうことも含めてなのだろう。
また世界全体の武装解除、天皇陛下が世界のトップになるということも、これらと相前後することになるのだろうと思う。