◎娑婆即寂光土の真諦
真人の道の続き。
『至善、至美、至真の行動を励み、善者または老者を友とし、これを尊み敬い、悪人、愚者、劣者を憐み、精神上にはたまた物質上に恵み救い、富貴を羨(うらや)まず、貧賤を厭わず侮らず、天分に安んじ、社会のために焦慮して最善をつくし、富貴に処しては、神国のために心魂を傾け、貧に処しては、簡易なる生活に感謝し、我欲貪欲心を戒め、他を害せず傷つけず、失敗(つまづ)きたるも自暴自棄せず、天命を楽しみ、人たるの天職をつくし、自己の生業を励み、
天下修斎の大神業に参加する時といえども、頭脳を冷静に治めて周章(あわてず)ず騒がず、心魂洋々として大海のごとく、天の空(むな)しうして百鳥の飛翔するにまかせ、海の広大にして魚族の遊踊するにまかすがごとく、不動にして、寛仁大度の精神を養い、神政成就の神業を補佐し、たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり、昆虫といえどもみだりに傷害せず、至仁至愛の真情(まごころ)をもって万有を守る。また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。
利害得失のために精神を左右にし、暗黒の淵に沈み良心を傷め、些少の事変に際して狼狽し、たちまち顔色を変え、体主霊従、利己主義をもっぱらとするものは、小人の魔心よりきたるのである。内心頑空妄慮にして、小事に心身を傷(やぶ)りながら表面を飾り、人の前に剛胆らしく、殊勝らしく見せむとするは、小人の好んで行なうところである。
霊界を無視し、万世生きとおし、生死往来の神理を知らず、現世のほかに神界幽界の厳存せることをわきまえず、ゆえに神明を畏(おそ)れず、祖先を拝せず、たんに物質上の欲望に駆られて、天下国家のために身命をささぐる真人を罵り嘲(あざけ)り、
死を恐れ肉体欲に耽り、肝腎の天より使命をうけたる神の生宮たることを忘却する小人あまた現われきたる時は、世界は日に月に災害と悪事続発し、天下ますます混乱し、薄志弱行の徒のみとなり、天命を畏れず、誠を忘れ利欲に走り、義をわきまえず富貴を羨み嫉(ねた)み、貧賤を侮り、おのれよりすぐれたる人を見れば、したがって学びかつ教えらるることをなさず、かえってこれを誹(そし)り嘲り、おのれのたらざる点を補うことをなさず、善にもあれ悪にもあれ、おのれを賞めおのれに随従するものを親友となし、ついに一身上の災禍をまねき、たちまち怨恨の炎を燃やすもの、これ魔の心の結実である。
執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状を見たまいて、至仁至愛の大神は坐視するにたえず、 娑婆即寂光土の真諦を説き、人生をして意義あらしめむとの大慈悲心より、胎蔵せし苦集滅道を説き道法礼節を開示したまいたるは、この物語であります。』
(『霊界物語』二十二巻総説より引用)
上掲『たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり』
袁了凡の功過格にあるような外形が善事であっても、天意にしたがって一々最善の行動をとるためには、神界の律法を心得なければならない。神界の律法を心得るとは、大神に等しい視点を持つということで、神人合一するということ。
上掲『また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。』
これは、人格のことを言っているように見えるが、さにあらず。大神と同じレベルの心でいるということ。
上掲『執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状』
これは追加の説明も必要なく、当時も現代も、このメカニズムでほとんど地獄な現世が作り出されている。
上掲『娑婆即寂光土の真諦』
これは、不安と恐怖と苦悩に満ちた現世(娑婆)は、すなわち苦悩のない仏の世界(寂光土)であるということだが、それはニルヴァーナにある人間にして初めて言える。つまり覚者の二重性のことである。
これは一遍の
「すてはてて身はなきものとをもひしに
寒さきぬれば風ぞ身にしむ」
という歌の心であって、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。
また禅僧白隠の〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉であって、悪行三昧の破戒の比丘でも、世界全体宇宙全体である有の一部である『破戒の比丘』を演じている自分と仏である自分という二重の世界に生きていれば、それは地獄に落ちず悟りを生きていると言えるということ。