◎最も大事なものを捨てる
(2008-01-02)
グルジェフのやり口は、単刀直入で、人の意表をついて、いろいろな意味での先入観を打ち壊すことから始める。これに対して、彼のよき紹介者であったウスペンスキーのアプローチは、知的論理的であり、絶対に人の意表をつかないという弱点があり、出会いの最初から「何かあるぞ」という目で見ない人には、ウスペンスキーのアプローチでは気づきを得ることはなかったのではないだろうか。グルジェフも、ウスペンスキーのやり方のその点を心配していた。
さて20世紀ロシアの神秘家グルジェフの生い立ちは、謎に満ちている。おまけに後年欧米で出会った人には、その多くを語らなかった。
グルジェフのパスポート上の生年月日は1877年12月28日。彼は当時ロシアとトルコの間で領土争いの焦点になったグムルーの町に生れた。この誕生日は、当てにならないとされている。
グルジェフの父はギリシア人の大工で、叙事詩ギルガメシュを朗誦する吟遊詩人でもあった。母親はアルメニア人。
カルスという町で、この地方の軍事学校のボルシェ神父に神学と医学を学ぶかたわら、アレクサンドロポールまで出かけて壊れた家具や機械を修理しては小遣い稼ぎをした。
そして10代の初めには、チフリスの駅で火夫をしたり、鉄道新設ルートの町や村に駅を作る便宜を図ると言っては賄賂をもらっていたようだ。また、この頃彼は、アルメニア正教発祥の地であるエチミアジンに巡礼をしたり、様々な社で祈ったりするという経験を積んだ。
チフリスに戻る頃には、鉄道の仕事をやめていいくらいのお金がたまったので、古いアルメニアの本を一山買ってきて、古都アニへ友人ポゴッシアンと引っ越して、読書と研究、そして廃墟の発掘・探検の日々を過ごした。
そうしたある日廃墟で見つけた修道僧の古い羊皮紙の手紙をきっかけにエジプトへ渡り、グルジェフは、エルサレムに移り、ロシアの観光客のガイドになった。
こうした放浪の末、どういう修行があったのかはわからないが、1902年ゴビ砂漠のはずれのヤンギヒサールで、流れ弾にあたり3か月も意識を失っていた。その2年後同じ町で、ロシア皇帝と革命家の争いに巻き込まれ、また流れ弾に当たった。
この怪我の回復過程において、自分が全く無価値であるというネガティブな意識状態におちいったが、駱駝が動いたことをきっかけに、グルジェフはこの魂の暗夜を振り払うことができた。
これは全的な自己知覚状態であり、グルジェフの見性にあたるものだと思う。この時、彼は超能力を自分のために使うことを含むすべてを捨てれば、自己知覚状態の源泉を引き出すことができると考えるに至った。
見性前には、グルジェフですら、それまで積み重ねてきた一番大事なものまであきらめる覚悟が必要だったということ。その後の老獪に見える彼のやり口に比べ、暗夜を乗り越える時はとても人間的であった事を知り、ほっとさせられる。