◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる
口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。
OSHOバグワンが、そこを指摘する。
『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。
たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。
希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)
日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。
そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。