◎男神には、あの遙かな性愛三昧を
秦の始皇帝の母親の趙姫は、女盛りの34歳で前秦王である夫を失い、息子が秦の始皇帝であったので皇太后となったが、孤閨をかこつことになった。丞相呂不韋は、自分と趙姫の関係を清算しようとしたのか、にせ宦官ロウアイを趙姫のつばめとして送り込み、趙姫はこれを寵愛した。これは、儒教の支那でも不道徳と思われたか、あるいは曲がったことでもあるものはあるという支那の合理性の容認するところだったのかどうかはわからない。
後にロウアイは趙姫に息子二人を産ませ、秦王政9年には、ロウアイはクーデターを敢行したがロウアイと息子は処刑された。
儒家の声が大きい支那では、趙姫は淫乱ということになっているが、ことわざに三十後家は立たずとあるように、その年代の後家さんは性欲お化けになるのはむしろ自然であって、淫乱とまでは言えないと思う。
またこの話には、趙姫の性愛エネルギーの消費という視点はあるが、趙姫がツイン・レイと出会ったのかどうかという視点も、男性側に思いやり深き態度があったかどうかなど本源的な愛にまつわる彼女の幸福という視点もない。趙姫が呂不韋の愛妾としてキャリアをスタートしたのは不運だったというのは簡単だが、それだけなのだろうか。
さて、ダンテス・ダイジの性愛観では、まず神事が第一、すなわちまず悟ることが最低基準である。これは、『高次元意識への自己解放』であって、一般にニルヴァーナへの突入か身心脱落を指す。
第二にパートナーは、魂の半身であるソウルメイトに限ること。相手を取っかえひっかえはあり得ない。
第三に、その時『その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を受容せしめ』て、それは愛に変じ、時間・空間・物質の三元に展開する。
そもそも体位とか、テクニックとかの巷間の想像とはまったく違った方向で、彼は性愛冥想を論じているのだ。
『人間的営為が虚無に打ち勝つことは決してない。
人間があるということは、虚無があるということだ。
むしろ、虚無そのものによって人間が絶対的に否定される時、虚無はまさに虚無ゆえに自消自滅する。
ここにセックスは、不安としての享楽刺激から
言詮不及の愛の一表現として甦る消息がある。
すでに、いかなる対立も戦いもありえない。
時・空・物の三元のない至福は
もう至福と名づけるのも愚かしい。
女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を。
男神には、射精しない持続的快感と、
思いやり深き態度から、さらには、あの遙かな性愛三昧を。
男性の性愛冥想者は、自我意識を霊的広がりに
向かって捨て去らねばならない。
射精のはかない生理的快感は、とるに足らぬものだ。
女性の中に歓びと安住を頼るのではない
まず高次元意識への自己解放があり、
その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を
受容せしめるのだ。
性愛は何も産まない
悦楽も安らぎも産まない
子供も産まない
子供はおのずから生きる
子供は子供独自の生命を流れている』
(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)