◎冥想の未来図と現在(2010年4月現在)
聖書や北欧神話で預言される来るべき千年王国では、叫びのない世界であるから、すべての人が神を知る王国である。それは、少なくとも全員が神を見たことのある時代だろうから、学校教育の中で冥想という科目があるだろう。
クンダリーニ・ヨーガをやっていては、学校生活も含め日常生活はできないだろうから、クンダリーニ・ヨーガは遅くとも思春期までの履修科目として適当と考えられる。せいぜい低学年・中学年まで。そして思春期までにに見神・見性が起こる。
思春期となってからは、現実との折り合いを考えなければならないから、只管打坐しかないだろう。しかしクンダリーニ・ヨーガの素養がそこそこあるのであれば、クンダリーニ・ヨーガの特徴である精妙さ、デリカシー、クリエイティブ、科学性というようなものは、只管打坐の修行の中で生きてくる場面があるだろう。
こうして18歳になるまでには、かなりの人が身心脱落を経過していく。
そして神・仏・タオ・ニルヴャーナを知る人ばかりの世界では、そのことによる報いを期待せずに、われこそとばかりに競って自分のメリットを捨て、自分のことを犠牲にして相手に対することがマナーとなる。それが至福千年の社会。
しかしながら、学校でクンダリーニ・ヨーガを訓練すると必ず中心太陽への突入を起こすわけでもなく(只管打坐から身心脱落が起こったり)、同様に只管打坐を実修すると、これまた身心脱落しか起こらないかといえば、そうでもない(中心太陽突入が起こったり)。(昔から冥想フリークはいろいろな冥想を試すものである。)
またどちらの修行を採用しても、必ずしも悟れるわけではないという不確実性がある。これを二重の不確実性と呼ぶが、それはその人の個性によるものであるから如何ともしがたい。
いずれにしても、常時、社会全体で相当数の覚者を抱え続けるのが社会の純粋さのバロメーターとして機能する。そして、悟ってない人もそれに向かう日常の冥想習慣を有する社会が次の社会なのだろうと思う。
このような構図からすれば、現代において冥想は、お寺や教会やヨーガ・スタジオなどを除けば、人に迷惑にならないことを専一にひっそり自分の部屋で打ち込む、日陰の花みたいなステイタスであって、現代社会は冥想から遠い異常な世界ではある。
何より学校教育では冥想なんて科目はないし、生まれつき冥想習慣のある極くまれな人以外は、大人になってから、書店や図書館でそうしたものを知ったり、珍しく冥想修行に打ち込んでいる人に出会ったりして始めるのが通例だろう。そういう意味では、覚者の極めて出にくい冥想環境にあるのが現代社会である。更に冥想と聞けばオームの悪影響で色眼鏡で見られてしまいがちな傾向まである。
そんなわけで、残業も含めて一日8時間以上働く生活であれば、風呂と食事と睡眠と家事以外に自由な時間は、せいぜい1~3時間。この時間からテレビやメールやパソコンに向かう時間を差し引いた残りが冥想に充てられる時間となる。それは数分かもしれないが、毎日続ければ、冥想のリズムみたいなものが感じられてくるのではないか。
本来は朝と寝る前に冥想すべきであるが、最近はほとんど夜坐ることはない。坐るのは朝だけだし、ブログも朝だし、冥想のために30分なんてとても時間を捻出できない。時間がないという言い訳は冥想修行者としては甘えたっぷりだが、これも現実。
社会人であれば、大方のこのように冥想に充てられる時間は厳しいだろうと思うが、数分の柔軟体操を毎朝するように、数分なりとも冥想する習慣を継続することしかできないのだろう。けれども、その数分から新時代が始まるのではないか。