◎捨父逃逝
捨父逃逝は、リッチな父の不肖の息子が、若い時分に家出をして、遠国で非正規の職を転々とし、最後はホームレスに落ちぶれ、父の邸宅の前で乞食をやっている。これに気づいた父親が、それとなく自家の簡単な仕事を斡旋してやり、何十年か続けさせたところで実家の家宰に取り立て、親子名乗りもするという物語。
これは、父をニルヴァーナに見立てた凡夫が悟りを開く物語。凡夫は、如来知の相続人である。
元々は法華経の信解品にある話であって、白隠禅師坐禅和讃にも、『長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず』と出てくる。
昔は、これをもともと彼の人生観が転倒していたと批判して、 あえて迷いから悟りへの修行の過程を見せたわかりやすい題材などと評価していた。
今見ると、この話では、親子名乗りをするところが大悟覚醒であるが、実家での日々の努力の果てに順調に涅槃に至るみたいであって、逆転の雰囲気がないところが引っかかる。昔は、こういうような一本調子なものでも役に立ったのだろう。
本来、この親子名乗り直前のシーンでは、息子はそれまで生きて積み上げてきた人間関係、財産、家族、名誉、資格など、自分と自分の生きて来た宇宙全体が一度死ななければならない。それから初めて感動の再生が起こる。それが親子名乗り。
これは、大逆転シーンであって、タロット・カードなら吊るされた男。(吊るされた男の【逆位置】というのは何の意味もないと思う。)
組織宗教にあっては、こうした逆転シーンを強調するのは都合が悪かったのかもしれないが、現代の戦争を知らない人々ばかりの時代には、“逆転”を強調するのは、むしろ必須なのではないかと思う。