◎生きているこの身このままで悟りの姿
臨済録を読んでいると、ご飯を食べたり、トイレに行ったり、眠くなって寝てしまうのが、そのまま仏の姿、悟りの姿であるなどと書いているので、面食らう。そんなはずはないからである。
臨済はさらに一歩進んで、無間地獄に落ちる五種類の罪業を造って、はじめて解脱を得られるのだとまで言っている。
私は、これについて若い頃は、悟りを開けば五族昇天すと言うほどそれまでの悪カルマがどんどんと解消するのだから、悟りを開いた時点からカルマが全面的に善い方に逆転し始めることをいうのだろうと思っていた。
最近は、むしろOSHOバグワンの言うように、人間はすべて悟っているがそれに気づかないだけであるという説明の方が近いと思っている。
臨済の五無間業を犯してはじめて解脱を得られるというのは、なまなまに日々漫然と生活しているだけでは、自分が悟っていることに気がつくモチベーションが起きることはない。むしろ五無間業を犯してはじめて、人間として生まれたからには大悟覚醒せねばならないというきっかけが起きて来ることを言っていると考えている。
※五無間業:無間地獄におちる五種の重罪。母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(見仏経験者)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること。
そうした見解の下で、二人の僧が御簾を巻き上げたが、一人の僧はOKになったが、もう一人の僧はNGとなったとか、ある僧が居眠りしたのはNGだったが、臨済が居眠りしたのは師の黄檗に咎められなかったという話がある。
生きているうちには、必ずどこかで五無間業をしでかすようなことはあるものだが、ひとたび大悟すれば、二度と悪事を犯すことはないというのも真相なのだろう。諸悪莫作、衆善奉行(善いことをして、悪いことをしない)。
臨済録示衆13から。
『【大意】
師は大衆に示していった、「修行者たちよ、仏法は営為を用いるところのないものだ。平常で無事であって、大小便をしたり、着物をきたり、 飯をたべたり、疲れたらすぐに横になって休む、ただそれだけのことで ある。
愚かな人はそういうわしを笑う、しかし智者はこれをわかってくれる。古人もいった、『外に向って思慮をめぐらすのは、みんな大馬鹿ものだ』と。
まあ、諸君、どこででも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である。どんな境がやって来ても、君たちを引き廻すことはできない。たとえこれまでの悪因縁の餘習や無間地獄におちる五つの行為があったとしても、それらは自然に解脱の大海になるだろう。』
(禅家語録Ⅰ 筑摩書房の臨済録P325から引用)
『【訓読】
師、衆に示して云く、「道流、仏法は功を用いる処無し。祇だ是れ平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困じ来れば即ち臥す。愚人は我れを笑う、智は乃ち焉(こ)れを知る。古人云く、『外に向って功夫を作す、総に是れ痴頑の漢』と。你、且らく随処に主と作れば、立処皆な真なり。境来れども回換し得ず。縦い従来の習気、五無間の業有るも、自から解脱の大海と為らん。』