◎鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか
墓に行くと五輪塔があり、一番上のスライム様の石を見かけることもあるだろう。これが空のシンボル。
OSHOバグワンは、空は、ウパニシャッドでは、至福と呼ばれ、仏教・釈迦はこれを空と呼んだと説明する。OSHOバグワンは、空とは心全体が去ったゆえに、不安、苦悩、恐怖がないから至福であるとする。
一方でOSHOバグワンは、無には、ネガティブな見方とポジティブな見方があるとする。曰く、無とは、からっぽのものである死のような闇のような地獄のような、喜びなく歌がなく胸の高鳴りのないもの、これがネガティブなものであるという見方。これが西洋で神が無と呼ばれない理由で、西洋では無は恐怖であった。うつろな心は悪魔の仕業などと言って。例外は、ディオニシウス、エックハルト、ベーメ。
逆に無についてポジティブな見方をとるのは、東洋。OSHOバグワンは、釈迦は、空の中でのみ、無の中でのみ神のような質が起こり得るとする。空と無は同義。
OSHOバグワンは、釈迦、マハーヴィーラ、禅者、道士においては、無とはすべてのものが消え失せた後には、ただ純粋な意識だけが残る。曰く鏡には何も映っていないが鏡だけが残る。鏡に映っているものがマインド(頭)、何も映っていない鏡がノーマインド(無心)。
何も映っていない鏡は、無であって、ダンテス・ダイジなら石ころの心だが、そこから豊かに満ち満ちてあふれ出す。『仏陀はこの無を「満ち溢れる慈しみ」と定義した。』(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP526から引用)
慈しみとは愛である。
※ディオニシウス:紀元1世紀のアテナイ人。キリスト教神学と新プラトン主義を結び付け独自の神秘主義を立てた。
この一見無機質で、とりつくしまもない鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか。この功利的で殺伐とした地獄のような気分の人が多数生きる時代に。