◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り
(2009-01-15)
クンダリーニ・ヨーガでの究極の体験がそのものズバリで文献に残っていることはまずない。大体が西洋の錬金術書のように、その体験のないものが読んでも全く何のことか想像できないような文献ばかり残されている。
2.出口王仁三郎のケース
出口王仁三郎は人生の中で5~6回肉体死を経験したと語っているので、そのうちの一回は中心太陽への突入体験であったのではないかと考えられる。また自分が神であったことも、唐突に、前後の脈絡なく述懐している。
その時の体験は、バラバラな形で残している。
(1)上昇の過程
霊界物語第五巻に、「神」マークのついた人間が、先に鉤のついた黄金の霊線に沿って引き上げられる様子が書いてある。出口王仁三郎が、黄金の霊線と見えるクンダリーニのエネルギーコードに沿って、多くの人間が無数の宇宙を上昇していくことを自分も上昇しながら、その霊眼で確認したものと考えられる。
(2)中心太陽への突入体験
出口王仁三郎は、中心太陽への突入体験を無我の境と表現する。大なる神の我という状態があることが日常の生活感覚での吾と全く違うことをことさらに主張することは、その体験とはいえない体験がある者だけのモチベーションから来るものだと思う。
『無と云ふ事は言霊学上、天といふ事である。我と云ふ事は霊的に見た自分、宇宙と合致したる自分。自己の肉体をさして吾と云ふ、吾のわれは五つの口と書く。鼻の穴、口の穴、耳の穴、尻の穴、小便の穴、この五つの穴を備へた肉体の自分をさして吾と云ふ。
無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態である。慾望もなく、怨恨もなく、好きもなく嫌ひもなく、自分もなく人も無く、神の懐にとけいつて、神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を無我の境と云ふのである。
吾人の吾もわれなれば我国の我もわれと云ふ。併し乍ら、【我】と云ふ場合は大なる神の我、【吾】と云ふ場合は一個の肉体の吾となるのである。われわれとか、わが身とか、わが家、わが妹、わが妻など書く場合は必ず吾の字を用ふるのが至当である。』
(水鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)