◎二重の不確実性
悟りとは、すべてを捨て去った後に到来する日常性からの超越である。
この情けない人生を超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがある。
それがなければ、そうしたジャンプをしようとまでは思わない。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、更にそれが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。
つまり経験値が十分でなければ、まだまだ贅沢な生活や燃え上がる恋なんかに未練を残していて、あるタイミングがくれば、冥想修行へのトライなんか中途でやめてしまいがちなものだ。
それでは、魂の経験値の問題をクリアできたならどうだろうか。
準備ができた修行者は、ジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。やがてジャンプもした。
ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。着地したところが仏の場合もあれば、運悪く?悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。
これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。
要するに、冥想修行となれば、ある一定の修行方法で、ある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではない。これが第一の不確実性。
その上、結果が、その修行方法で予期された形に必ずしもなるものではないというもう一つの不確実性があるのである。つまり只管打坐メインで修行していたが、観想法もついでにやりづけた結果、クンダリーニ・ヨーガの方の修行の進境が著しかったなどどというケースがあること。
この二重の不確実性こそ、希望した人がすべて悟れるわけでもないし、希望した時期に悟れるわけでもない所以(ゆえん)である。
またそうではないと言下に否定されるかもしれないが、身心脱落などは、本当に本気になることで起きる何かだと思うが、その本気になるモチベーションがどこから来るかといえば、魂の経験値の積み上がり具合から来るものだと思う。
魂の経験値の積み上がり具合・成熟度は、自分で何とかできるものではないので、それを承知しているなら、悟れる悟れないについては、誰もが今生で悟れるなんて迎合的なことを言うグルはいないのではないか。
またこうした不確実性こそ、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由ともなっている。
そんなこんなで、今更言うまでもないが、真剣にあらゆるものを振り捨てて、神頼みしかできないような、緊迫した状態に陥らねば、人は冥想なんぞしないものだ。
天変地異などに遭遇して、初めて万人は、神頼みしかないところに追い込まれる。
だからといって、座して核戦争や天変地異を待つようなことは誰も考えないだろうと思う。それを予感して何をすればいいのかわからない人にとって最後に残された手段は、冥想しかないが、それを論理的演繹的に説明することなどできない。
それでも生き延びるため、ないしは情けなく無力で邪悪な自分を死に切るには、やはり冥想しかないことに気づくしかないのだ。