◎4.悟りの効果-10
クンダリーニ・ヨーガの効果の第一は、生の世界が死の世界の一部であることを知り、死を超克することである。これはどのように起こるかというとダンテス・ダイジの説明では、まず私の世界が死ぬ、私の心が死ぬ。そしてアートマンは、無上の垂直道を上昇し、中心太陽に突入して起こる。
これに対して副次的な効果というべきものがある。これが超能力が使えるようになることである。覚者にとっては、それが使えるからといってどうということはないというスタンスであることは間違いないが、人間としての窮屈さからいろいろなことに絶望しがちな真面目な人にとっては、一縷の望みたり得るし、人間に与えられた自由の可能性を信じる証左となり得るところもあると思う。
超能力とは、仏教では六神通とし、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通などがあるが、クンダリーニ・ヨーガで達した人たちの事蹟を見れば、こうした能力を自在に使い分けていることが感じられるものだ。ただし超能力は、天意神意に依るという原則もまたある。
さて、世に知られたるクンダリーニ・ヨーギの代表的な人物と言えば、イエス・キリストと出口王仁三郎ということになるだろう。
熟達のクンダリーニ・ヨーギといえども人前で超能力を見せびらかすのは禁じ手のはずだが、脱線したのかどうかいくつかの事蹟が伝えられている。
イエス・キリストの奇跡と言えば、パンが数個しかなかったのに、数千人の人々に分け与えることができるほどに増えた話、婚礼の時にワインが足らなかったが、水をワインに変化させたこと、死者ラザロを生き返らせた話などいくらでも出てくる。
当時のパレスチナの人は、実際にいろいろやって見せないと信じなかったということはあるのだろうが、弊害もあるので、いささかやりすぎのところがあったかもしれない。
これに対して出口王仁三郎は、時代も最近となり、人々もなかなか他人の語る言葉を鵜呑みにはしないという手ごわさがあったかため、わりと慎重に応対したことが窺われる。
右翼の大立者頭山満が、出口王仁三郎邸を訪問した際に、少女がお茶を出して下がっていったが、その少女の足が、終始床から10センチほど浮いていたこと。
出口王仁三郎はアストラル・トリップを繰り返し、肉体では行ったことのない世界各地を訪問しまくっており、訪問先のことは、実際に見てきたかのように(実際に見たのだろうが)よく知っていたこと。
他にも小説家佐々木味津三の知己の新聞記者の財布の中身を紙幣、硬貨の種類別にきちんと言い当てたこと(みろくの世/上田正昭監修/天声社にあり)などもあるが、たまに超能力が発揮されたのではなく、会う人会う人の宿命をたちまち見極め、その人にふさわしいアドバイスを次々と与えていったようなので、本物はこうしたものだろうと思う。
こうした余興のようなものは別にしても、頭で想像したものはいつかは実現する(数百年後、数千年後の実現もあり)というのは、時間こそかかるが、誰にでも与えられた超能力みたいなものだと思う。大昔の誰かさんの「世界を牛耳りたい」という願いが、いつしか核兵器となって実現したというようなことはあるのではないか。
超能力に縁のない我々も、超能力については、こうしたものもあるのだという程度の冷静な認識でよいのだろうと思う。それはあくまで付随的に発生するもので、本質とは関係ないのだ。
クンダリーニ・ヨーガの効果の第一は、生の世界が死の世界の一部であることを知り、死を超克することである。これはどのように起こるかというとダンテス・ダイジの説明では、まず私の世界が死ぬ、私の心が死ぬ。そしてアートマンは、無上の垂直道を上昇し、中心太陽に突入して起こる。
これに対して副次的な効果というべきものがある。これが超能力が使えるようになることである。覚者にとっては、それが使えるからといってどうということはないというスタンスであることは間違いないが、人間としての窮屈さからいろいろなことに絶望しがちな真面目な人にとっては、一縷の望みたり得るし、人間に与えられた自由の可能性を信じる証左となり得るところもあると思う。
超能力とは、仏教では六神通とし、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通などがあるが、クンダリーニ・ヨーガで達した人たちの事蹟を見れば、こうした能力を自在に使い分けていることが感じられるものだ。ただし超能力は、天意神意に依るという原則もまたある。
さて、世に知られたるクンダリーニ・ヨーギの代表的な人物と言えば、イエス・キリストと出口王仁三郎ということになるだろう。
熟達のクンダリーニ・ヨーギといえども人前で超能力を見せびらかすのは禁じ手のはずだが、脱線したのかどうかいくつかの事蹟が伝えられている。
イエス・キリストの奇跡と言えば、パンが数個しかなかったのに、数千人の人々に分け与えることができるほどに増えた話、婚礼の時にワインが足らなかったが、水をワインに変化させたこと、死者ラザロを生き返らせた話などいくらでも出てくる。
当時のパレスチナの人は、実際にいろいろやって見せないと信じなかったということはあるのだろうが、弊害もあるので、いささかやりすぎのところがあったかもしれない。
これに対して出口王仁三郎は、時代も最近となり、人々もなかなか他人の語る言葉を鵜呑みにはしないという手ごわさがあったかため、わりと慎重に応対したことが窺われる。
右翼の大立者頭山満が、出口王仁三郎邸を訪問した際に、少女がお茶を出して下がっていったが、その少女の足が、終始床から10センチほど浮いていたこと。
出口王仁三郎はアストラル・トリップを繰り返し、肉体では行ったことのない世界各地を訪問しまくっており、訪問先のことは、実際に見てきたかのように(実際に見たのだろうが)よく知っていたこと。
他にも小説家佐々木味津三の知己の新聞記者の財布の中身を紙幣、硬貨の種類別にきちんと言い当てたこと(みろくの世/上田正昭監修/天声社にあり)などもあるが、たまに超能力が発揮されたのではなく、会う人会う人の宿命をたちまち見極め、その人にふさわしいアドバイスを次々と与えていったようなので、本物はこうしたものだろうと思う。
こうした余興のようなものは別にしても、頭で想像したものはいつかは実現する(数百年後、数千年後の実現もあり)というのは、時間こそかかるが、誰にでも与えられた超能力みたいなものだと思う。大昔の誰かさんの「世界を牛耳りたい」という願いが、いつしか核兵器となって実現したというようなことはあるのではないか。
超能力に縁のない我々も、超能力については、こうしたものもあるのだという程度の冷静な認識でよいのだろうと思う。それはあくまで付随的に発生するもので、本質とは関係ないのだ。