◎見性・見神の希薄化
見性、見神とは、本来の自己たるアートマンを目撃すること。
死の世界に入って、どこでそれを目撃しているかを確認するために、手近な霊界探訪譚をひもといてみよう。すると地獄の真っ暗闇な場所を除けば、あの世では、ほとんどどこにいても霊界太陽(中心太陽)が目撃できることを知ることになる。
すなわち死の世界に入りさえすれば、まず本来の自己を目撃できるということになるということ。こういうことが起きる原因は、微細なボディにおいては感覚が鋭敏になるせいだと簡単に片づけることもできるが、事態はやや複雑である。
というのは、このことは、死の世界に入った瞬間に、見性・見神・見仏が発生するということを意味するからである。つまり死の世界に入ったことのある者、たとえば臨死体験者やアストラル・トリップする人は、ほぼ一律に菩薩と位置づけられるのではないかということなのである。
換言すれば、クンダリーニ・ヨーガの修行プロセスにおいて、一旦死の世界に入ったことのある者は、その後は菩薩としての修行を歩むことになるとも言える。
さて一口で死の世界、あの世といっても、エーテル体宇宙、アストラル体宇宙、メンタル体宇宙などいろいろな次元がある。最も一般的なアストラル体宇宙の死の世界に入る場合であってすら、この世からあの世に至る中途の道程をきちんと知覚できる人は稀で、大方ははしょって三途の川と認識することが多い。
このように、その世界に入ることと、そのことをきちんと評価できるというのはまた別物なのだろうと思う。そしてまたその違いは想像以上に大きなものであるように思う。つまり一括りに菩薩になったといっても、そのにわか菩薩のレベルは実はピンからキリまであり、程度のばらつきがすこぶる大きなものではないかと思われるのである。
要するにアストラル世界を水平に動き回ることは容易かも知れないが、その本質を見極めて、その上位たるメンタル体世界からコーザル体世界、アートマンと垂直上昇することこそが、この「きちんと評価する」ということだろうと思う。それほどに「きちんと評価する」ということは、簡単ではなく重いこと。
その意味からすれば、巷間にはびこるアストラル霊界のみ知る霊能力者の霊言などとるに足らないものと位置づけられるように思う。
仏教では、菩薩は52の位階に分類される。最上位が妙覚で、第2位が等覚、空海は長安にいた頃第10位の発光だったことが知られている。菩薩のようにとりあえず悟ったことのある者に対して、一体誰が何のために52ものランクを付けたのか、かねてより疑問に思っていたが、上に述べたような消息であれば、その理由が推し量れるように思った。
つまりクンダリーニ・ヨーガ修行の途上で、死の世界にあっては、見神、見性の意味合いは相対的に希薄化するためではないかとうこと。