◎出口王仁三郎の無我
(2006-10-04)
『真の無我の境というのは、人間としてあるものではない。
無我のような感じを起こすことはある。それはある事業に没頭して、それに一生懸命になっておれば、他の仕事に対しては、無我の境に入ることになる。しかし夢中になっておるその仕事に対しては、決して無我ではない。
精神統一というが、これもまたいうべくして出来得べきことではない。祝詞を奏上しながらもいろいろなことを思い浮かべるものであるが、鎮魂というのは、「離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、いろいろの雑念が集まり来るが当然である」
その雑念は、罪障に対する回想や希望となって現れてくるもので、それを思うのは、別に悪いことではない。』(玉鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)
この文の中で、無我の境についての説明は、「真の無我の境というのは、人間としてあるものではない。」だけである。これによって、出口王仁三郎は、人間を超えた無我の世界を知っていることがわかる。人間を超えるのは、七つの身体論で言えば、第六身体以上のこと。それは人間としての見方の中で語ることはできないから、以降の説明をすっぱりとやめて、別の話題に移っている。
真に問題となるのは、人間を超えることの方だが、そのノウハウについては、出口王仁三郎については、断片的に拾うことができるだけという印象がある。
別のところで、『佛(ほとけ)という字は「人に弗(あら)ず」と書いてあって、凡人にすぐれた覚者の意である。また佛(ほとけ)の意味は解ける、すなわち解脱したことをいうのである。
今日の佛は、全く人偏(にんべん)に弗(ドル)となってしまった。』とあり、全く同じことを表現している。
無我は、人間的体験の中にはないのだ。